「思いやりたぁ、情熱の休息ながぜよ。」(ジョゼフ・ジュベール)
何やち物事を成し遂げるにゃあ、情熱が必要ながよ。ある意味、情熱なくして成し遂げれることらあて、ないと言えるかもしれんがやき。けんど、情熱さえありゃあ何やち成し遂げることができるかゆうたら、そうじゃあないがよ。
ある事に対してこぢゃんと情熱を持っちゅう人っちゅうんは、いつやち誰にやち、その情熱をそのまんまストレートにぶつけてしまいがちながやき。時によっちゃあ、場合によっちゃあ、また人によっちゃあ、実はそりゃあ逆効果になってしまうことがありがちながぜよ。
人間は当然ながら、誰やち考え方が違うし、感じ方も違うもんながよ。ほいたらその時や場の空気とか、相手がどう受け取るかとか、そういうことを考えもって伝えた方がえい場合が少のうないがやき。それが「思いやり」っちゅうもんやないがやろうか。
情熱を持って、どういたち伝えたいことがあるやったら、時にゃあその「情熱」を休息さいて、相手に対する「思いやり」で包み込んで伝えてもうぜや。その方が伝えたいことがちゃんと伝わる場合が少のうないことに気づくがやないろうかのう。
情熱を休息させるらあてゆうたら、何か情熱の火を弱めるようなイメージがあるけんど、実は全く逆ながよ。伝わらん情熱らあて、そりゃ単なる独りよがりかもしれんし、どういたち伝えたいっちゅう気持ちが少ないがやないかっちゅうふうに考えりゃあ、そりゃ大したことない情熱やないかよ。どういたち伝えたいっちゅう情熱が強けりゃあ強いばあ、時と場と人に対して思いやりを持たにゃあイカンっちゅうことながやき。
結局、思いやりのない情熱らあて、そりゃあ本物の情熱やないっちゅうことながぜよ。