2月28日(土)は、まずは大阪の生興(株)(http://www.seikofamily.co.jp/)の古谷さんと、愛媛の(株)ロイヤルカーサービス(http://www.rcs-group.co.jp/)の北村社長さんと、香川の(株)タダノ(http://www.tadano.co.jp/)の向井さんの3人が来高され、司牡丹の酒蔵見学をされたがぜよ。
3人の方々とも遠方からはるばる、この時期毎年酒蔵見学に来てくださりゆうがよ。11時半ばあに佐川駅に到着されたき、まずはちくと昼食を食べ、佐川の町並みを散策。国の重要文化財に指定されちゅう竹村家住宅を見学して、司牡丹の酒蔵見学にワシがご案内さいてもうたがぜよ。
見学は14時過ぎにゃあ終了。それから4人で、高知市内に向こうたがやき。実はこの日15時半から、「こうち情報倶楽部」主催(「高知県経営品質協議会」「高知の食を考える会」共催)で、かの山形の世界的イタリアンレストラン「アル・ケッチァーノ」(http://www.ques.co.jp/alchecciano/)のオーナーシェフ奥田政行さんの講演会が開催されるき、皆さんを誘うて参加さいてもうたっちゅう訳ながぜよ。
「アル・ケッチァーノ」奥田シェフといやあ、スローフード協会国際本部主催の「テッサ・マードレ2006」にて世界の料理人1000人(日本から10人)に選出され、TBS「情熱大陸」でテレビ放映もされ、全国からお客様が殺到!そのおいしさは「奇跡のテーブル」とまで言われゆうがやき!
さて、会場の高知商工会館にゃあ100名ばあの参加者が集まられ、大盛況。15時半からは万雷の拍手の中、いよいよ奥田シェフの講演「何もないところからはじめたレストラン」のスタートながよ。
まずは奥田シェフの経歴。バブルの頃は東京で、客単価10万円っちゅうイタリアンレストランで働きよったがやと。その頃は、まだどこのレストランも日本の野菜らあてノーマークやったらしいがやけんど、ちくと山形の野菜を目利きの先輩シェフに渡いたら、お店で使うてえいっちゅう話になったっちゅうがよ。その頃から、ひょっとしたら山形の野菜は世界に通用するかもしれんと、思うようになったっちゅうがぜよ。
26歳になった頃、山形に帰るかフランスに渡るかを選択することになり、自分が若いうちに帰って山形を元気にしたいっちゅう気持ちで戻ったらしいがやき。人口10万人の鶴岡市に帰り、まずは駅前ワシントンホテルの料理人になったがやと。ほんで、地域を元気にするにゃあ、まずは料理人を元気にせにゃあイカンっちゅうことで、調理場のもんらあの改革からはじめたっちゅうがよ。その後料理長になって、スタッフも育ってきたき、今度は生産者を元気にしょうっちゅうことで、農家レストランの料理長になって、こぢゃんと繁盛さいたっちゅうがぜよ。
ほんで2000年に、今度は地域全体を元気にしょうっちゅうことで、「アル・ケッチァーノ」をオープンさいたがやと。こん時手持ちは150万円。市営アパートに住んで子供が2人。5年先までの事業計画書を完璧に書いて、国民金融公庫から600万円ばあ借りたっちゅうがやき。ほんで、築30数年のお化け屋敷みたいな家を家賃10万円で借りて、手作業で直し、3月に開店したっちゅうがぜよ。
「アル・ケッチァーノ」っちゅう店名は、庄内弁ながやと。「庄内にあったわね〜」とか、「自分で歩きなさい」とか、「庄内にこんなおいしい食材があったんだね〜」っちゅうような、いろんな意味が込められちゅうがやと。
けんど、オープンしてからはいろんな壁にぶつかったっちゅうがよ。まず、地元の他の飲食店らあから、総攻撃を受けたっちゅうがやき。最初は「地場イタリアン」っちゅう看板を出しちょったがやけんど、「地元のもんがそんなに揃うわけがない」っちゅうがやき。その頃の地元農産物の現状は、農協主体で大量生産大量出荷、肉類は全て東京経由の出戻り、小ロットはいやがられるっちゅう具合。ほんじゃき、畑をひとつ借りて、少量他品種を作ってもらうことにしたっちゅうがよ。その結果、いろんな新鮮な野菜が店に集まってきたがやけんど、野菜が主役の独自の料理法な味つけが変わったっちゅうがやき。
ほんで奥田シェフは、流通しゆう野菜と、畑から採ってきたばっかしの野菜は、味が違うっちゅうがよ。料理本のレシピは流通野菜用の味つけやき、採れたて野菜のレシピにゃあ使えんっちゅうがやき。また、さらに野菜は毎日味が違うっちゅうことにも気づいたっちゅうがよ。日照りが3日以上続きゃあトマトが甘うなるとか、雨が続きゃあ水分が豊かになって瑞々しゅうなるとか。その日に仕入れた素材を一口食べては考えてメニューを書き換える、素材から考える料理法が誕生したっちゅうがぜよ。
ちなみに「アル・ケッチァーノ」のメニュー黒板にゃあ、百何十種類のメニューが書かれちゅうがやと。ようお客様から、これっぱあメニューがいっぱいあったら、食材がこぢゃんとムダになって大変やないかっちゅう質問があるらしいがやけんど、実は1人前出たら売り切れっちゅうメニューがいっぱいあるき、実は大したこたぁないっちゅうがぜよ。
次に第2の壁は、「地元のもんがそんなにおいしいがか?」っちゅうもんやったがやと。おいしいこたぁ体では分かっちょったけんど、説得材料がなかったっちゅうがよ。そこで、野菜についてこぢゃんと勉強することにしたっちゅうがやき。野菜を知るためにゃあ、度々生産者の畑に行って、いろいろ聴かにゃあイカンがよ。ほいたらその結果、本じゃあ分からんことが足るばあ分かるようになって、野菜の背景、畑の香りや風景らあもひっくるめて、丸ごと心に刻みつけられたっちゅうがやき。さらに、生産者と親しゅうなりゃあ、こちらが求める味の野菜を作ってくれるようにもなったっちゅうがぜよ。
続いて第3の壁は、「地元のもんが、全て安心・安全なわけやないやろう!」っちゅうもんながよ。現実は、無農薬栽培をすりゃあ虫を呼ぶっちゅうて、多くの生産者に嫌われるっちゅうがやき。そこで、離れたところに自分の畑を持って、そこで無農薬栽培をしてもらうことにしたがやと。また、昔っから庄内にある在来野菜に注目したっちゅうがやき。実は在来野菜は、長年の間に庄内の気候風土に順応した野菜やき、農薬らあも必要ないし、世界でここにしかない味の野菜やっちゅうがよ。例えばトノジマキュウリとか、ダダチャ豆とか。こうやって壁を乗り越えてきたら、最後にゃあ「そんなにおいしいもんを、こんなに安う提供できるはずがない!おまんはどんな手を使いゆうがな!」っちゅうて言われたっちゅうがぜよ。けんど奥田シェフは、そんな壁のお陰でいろんな経験ができたき、今じゃあ感謝しちゅうっちゅうがやき。
ほんで、課題を克服する流れの中で気づいたことを挙げるがよ。まずは、生産者は、本当は自分の作物のことを分かってくれる人に使うてもらいたいと思うちゅうっちゅうがやき。そんな中で、物々交換が始まったっちゅうがよ。野菜をくれた人が肉好きやったら米沢牛と交換するとか、日本酒好きやったら日本酒と交換するとか。
気づいたことの2番目は、野菜の種類はこぢゃんとあるき、ひとつひとつ勉強しよったら一生かかったち終わらんと。ほんで、大本の地質学を勉強したっちゅうがやき。そのお陰で、野菜の育つ風土や原理が分かったっちゅうがよ。そんな中で、生産者とのさらに深い関わりが生まれたっちゅうがぜよ。
ほんで奥田シェフは言うがやき。料理人は、大地と人、人と人を結びつける役割を持って生まれたがやと。さらに関わりあう命や想いを、料理で表現したいと。こう考えるようになったら、自分だっけの料理ができるようになったっちゅうがよ。そりゃあまるで天から降ってくるように。その野菜がどんな味つけのどんな料理になりたいがか、野菜と会話できるようになったっちゅうがぜよ。
そっからはあちこちに連載も持つようになるがよ。まずは地元紙に投稿し、「食の都庄内」が掲載。次は地元雑誌に、大学の教授と組んで、在来野菜の連載。ほいたら全国誌の「四季の味」に連載することにつながるがやき。ここじゃあ、料理の写真が出るき、魅せ方や演出の勉強になったっちゅうがぜよ。さらに「クロワッサン」での連載と、次々とつながっていったっちゅうがやき。
続いて奥田シェフは、庄内全体の問題にまで踏み込むがよ。まず1つ目の問題は、えいもんをつくりゆうに売れん、生活が苦しいっちゅう問題。これにゃあ東京売り込み作戦を敢行。羊肉を自らが持って、東京のレストランに売り込みに行ったっちゅうき、スゴイがよ。これが見事に当たり、いろんな東京のレストランで使われ、掲載された雑誌らあを見せるたんびに、生産者の顔が、だんだん神々しゅうなったっちゅうがぜよ。
2番目は、後継者がおらん、夢が持てん、未来が見えんっちゅう問題。これは、イタリアに農業研修に行けるっちゅう、ニンジンをぶら下げる作戦に出たがやと。今じゃあ、イタリアの有機の町と、農業を通じた交流にまで発展したっちゅうがやき。
3番目は、お米王国やに、お米が売れんっちゅう問題。これは、海外売り込み作戦ながよ。奥田シェフが海外に料理フェアらあに行く時に、お米を持って行くっちゅうがやき。ほんで、奥田シェフが、ナント寿司を握るっちゅうがぜよ。国内じゃあ寿司職人さんに失礼なき、やらんけんど、海外じゃあお米のPRのためにやりゆうがやと。また海外の方は、日本人のイタリアンシェフゆうたち、なかなか認めてくれんけんど、目の前で刺身を切って寿司を握りゃあ、スッと認めてくれるらしいがぜよ。
4番目は、明治維新以来の歴史の中で、閉塞感で夢を持てんなっちょったっちゅう問題。明治維新の時、最後まで幕府方やったもんやき、今だに朝敵のイメージを引きずっちゅうっちゅうがよ。この問題は長い歴史の中の問題やき、なかなか払拭は難しいようながやけんど、「食の都庄内」っちゅうテレビ番組が創られたり、「情熱大陸」が放映されたりしたら、「庄内のこと、良う見せてくれてありがとのー!」と言いもって、突然抱きついてくるお年寄りが増えたっちゅうがやき。また、山形県庄内総合支庁「食の都庄内」親善大使を委嘱され、仙台らあの県外に行って庄内の食材を売り込みゆうらしいがよ。今じゃあ先輩シェフ2人も加わり、3人で親善大使をやりゆうがやと。ほいたらだんだん地元の方々も、自分らあはひょっとしたら、こぢゃんとえい所に住みゆうがやないかっちゅうて、気づきはじめたっちゅうがぜよ。
ほんで奥田シェフは、庄内は食のワンダーランドを目指すっちゅうがやき。庄内をディズニーランドに見立てて、各店はディズニーランドでいやあアトラクションとか、食材はミッキーとかのキャラクターやとか、そういう見方ながよ。そんな中で、それがJRのキャンペーン商品になり、航空会社のパックツアーになり、今じゃあ県外から多くの方々が畑にまでやってきだしたっちゅうがやき。海外からもイタリア人らあが参加してくれだいたっちゅうがよ。そうすりゃあ、生産者の意識も、どんどん変わっていったっちゅうがぜよ。また、そんな中で、奥田シェフにゃあ気心のしれた仲間もでき、その仲間の中じゃあ何を頼んだち二つ返事でOKやし、お金もかからんがやと。何じゃち物々交換ですむ仲間やっちゅうがぜよ。1人当たりの県民所得は、山形県は36位らしいがやけんど、所得が少のうたち、お金がかからんかったら豊かになれるっちゅうて、奥田シェフは言うがやき。ほんで、年に1回、生産者の方々を無料でお店に招待して、飲み放題食べ放題をやり
ゆうがやと。
ほんで2年前にゃあ、隣に「イル・ケッチァーノ」っちゅう昼間だっけのカフェを開店さいたがよ。ここは、夜になりゃあ、様々な人らあのサロンみたいになっちゅうがやと。生産者の方々に、まずは野菜の科学的な話らあを大学教授にしてもうて、奥田シェフがその野菜を使うて目の前で解説しもって料理を作り、みんなあでいただくっちゅうがぜよ。「イル・ケッチァーノ」は、みんなあの公民館やっちゅうがやき。
さらに奥田シェフは、「庄内の食がつなぐ『結い』のトライアングル」っちゅう話をされるがやき。つまり、「料理人」と「知識人(大学教授らあ)」と「生産者」の3者が、トライアングルになっちゅう関係ながよ。料理人は知識人や生産者に料理や場を提供し、知識人は料理人や生産者に知識を提供し、生産者は料理人に食材を、知識人にゃあ研修の場を提供するっちゅう、持ちつ持たれつの関係ながやき。この関係の中じゃあ、3者とも悦ぶし、お金はまったく介在せんき、所得の低い庄内にゃあピッタリやっちゅうことながよ。この3者のトライアングルを中心に、いまどんどん同心円が広がっていきゆうっちゅうがやき。庄内の食材の絵本まで創られたっちゅうがよ。ちなみに数日後にゃあ、スローフードの全国大会「食の都庄内フェスタ」が開催されるっちゅうがぜよ。
だいたいこんな感じで奥田シェフの講演は終わり、続いてはたっぷりの時間をとった質問タイムに突入ながよ。まずはどうやって地質学らあの知識を得ゆうがかっちゅう質問。レストランにゃあ、パイロットや大学教授や、まっこと様々な人々が来るっちゅうがよ。そんな方々と会話して、まずは友人になるっちゅうがよ。例えば、5000円の食事をしてくださった方にゃあ、2000円分の野菜の知識を伝えて返してあげるとかっちゅうがやき。興味がある人にゃあ、その食材の歴史らあの昔話まで伝えてあげるっちゅうがよ。ほいたら、「あの店は料理にプラスして食材の知識を持って帰れる」っちゅうて話題になるがやと。
ほんで、「何かを知っちゅうことを与えると、何かの知識が帰ってくる」っちゅうがよ。セスナのパイロットの方からは、庄内の風の吹き方らあの知識をいただいたっちゅうがやき。風の吹き方は時間帯によって違うちょって、山の高さ、川の流れ、平野の広さらあに関係して、野菜の味にも影響を与えるっちゅうがぜよ。
大学の地質学の先生らあやち、親しゅうなりゃあ、「こんど美味しいスパゲッティおごるき!」で、いろんな知識を惜しみのう教えてくれるっちゅうがよ。奥田シェフは、そんな関係づくりについて、最初からあんまりお金で物事を考えんかったがが良かったがかもしれんっちゅうがやき。そんな中で、風や地質について知りゃあ、いつの間にか庄内の中での適地適作が、鳥瞰図で分かるようになったっちゅうがぜよ。
次に、味覚は何かトレーニングしゆうがかっちゅう質問。これは、舌にひとつひとつの味を記憶させちゅうっちゅうがよ。例えば鉄の味やち、ズ〜ッと舐めよったら味が分かるっちゅうがやき。そうやって、いろんなもんの味をひとつひとつ舌に刻みつけるがやと。味っちゅうんは、いろんなチンマイ味の組み合わさった集合体やっちゅうがやき。ほいたら、水を飲んだち、この水は鉄分が多いとかがスッと分かるようになるっちゅうがよ。
続いては、高知の食についてどう思うかっちゅう質問。奥田シェフは、お世辞でも何でものうて、地場の食材がファンタスティックな県は、山形と熊本と高知の3つだけじゃっちゅうがやき。山形・庄内は、食材タレントのバランスの取れた豊富さがウリやと。対して高知は、ひとつひとつの食材にカリスマ性があるっちゅうがよ。ひとつの食材だっけで勝負できる、前菜からメインやデザートまでこなしてしまうような、力のあるタレントっちゅう感じやっちゅうがやき。また、高知の食材は、いろんな味が溶け込んじょって、パワフルで、味に奥行きと一癖があるがが特徴やっちゅうがぜよ。
続いては、この不況の中、田舎で、どうやって客単価を維持、アップさせゆうがかっちゅう質問。まず、昔っから奥田シェフの考え方は、自分が生きちゅううちに自分の存在価値を生み出して死にたいっちゅうもんやったがやと。そりゃあ、競争らあに巻き込まれんようにするっちゅうことながよ。そのためにゃあ、その地域で他にない店をつくることやっちゅうがぜよ。例えば、ワシントンホテルにおった頃は、バイキング料理をやりよったらしいがやけんど、これは庄内にゃあバイキング料理がなかったきやっちゅうがやき。ほいたら、バイキング料理がテレビらあで取り上げられりゃあ、そこにみんなあが押し寄せるっちゅうがよ。また、「アル・ケッチァーノ」じゃあ、接待の方をわざと若いカップルの隣の席に配置さいたりするがやと。名付けて「いつかはクラウン作戦」。つまり、安い単品で食事をしゆう若いカップルの隣に、豪華なコースディナーが次々と運ばれてくると。カップルは豪華なディナーを横目で眺めもって、「いつかはクラウン」(笑)。接待がない時にゃあ、若いカップルはメニューボードの近くに座らせるがやと。ズラリと並ぶ美味しそうなメニューの名前を横目で眺めもって、これまた「いつかはクラウン」と(笑)。
次に、高知の地域おこしについての助言やヒントをっちゅう質問。何かがブレイクする時に一緒に伸ばすっちゅうことやと、奥田シェフは言うがやき。何かで地域が注目される時、食にも脚光が当たるっちゅうことながよ。山形で昔「おしん」が流行った頃、一緒に「ル・ポトフー」っちゅう店が流行ったがやと。ほんで、最近は藤沢周平さんのブレイクと共に「アル・ケッチァーノ」がブレイクしゆうと。高知は来年「龍馬伝」があるき、食で一緒にブレイクさせる大チャンスやっちゅうがぜよ。
続いては、スタッフをいかに育てゆうかっちゅう質問。奥田シェフは、人は周りに「見守る人」「言うてくれる人」(耳が痛いことを言うてくれる)「聞いてくれる人」(愚痴を聞いてくれる)の3人がおらにゃあ、健全に育たんちゅうがやき。厳しい状況に耐えれんなるっちゅうがよ。このバランスが大切やっちゅうがやき。ほんで、そのスタッフを見て、この3人のどっかが足りん場合、その足りんところの役柄を自分がやるようにしゆうっちゅうがぜよ。
こうして17時半、講演は無事終了。奥田シェフ、こぢゃんと勉強になるお話を、まっことありがとうございましたぜよ!
この後は、「こうち情報倶楽部」のメンバーで、奥田シェフを囲んでの懇親会やったがやけんど、かなり長うなったき、こちらについちゃあ明日のブログにてご紹介さいていただきますぜよ。
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司牡丹酒造株式会社