どこの何の取材かは、まだ明かさんとってほしいっちゅうことやったき、ここじゃあ残念ながら詳しゅうは書けんけんど、龍馬さんの酒と食についての番組を作るっちゅうことで、本映像を撮る前取材に、ディレクターさんが来られたがやき。
龍馬さんで酒と言やあ、そりゃもう司牡丹しかないがよ!さすが、分かってらっしゃる!
ほんで、龍馬さんと司牡丹が如何に縁が深いかっちゅうその証拠を、ズラリと並べて説明さいてもうたがぜよ。
ちなみに、司牡丹酒造、竹村家の屋号は「黒金屋(くろがねや)」っちゅうて、慶長8年(1603年)から土佐は佐川の地にて酒造りを営みよったがよ。
一方、龍馬さんの本家「才谷屋(さいたにや)」も、諸品売買らあと併せて、現在の高知市内にて酒造りも営みよったがやき。
その「才谷屋」の「才谷屋文書」を見ると、「黒金屋」との間にゃあ頻繁な交流があったことが記されちゅうがよ。
しかも、竹村家の本家にゃあ、天保2年(1831年)に、黒金屋弥三右衛門が才谷屋助十郎から酒林壱軒(酒造りの株一軒分)を買うたっちゅう書状が残っちゅうがやき。


ちなみに才谷屋助十郎は、龍馬さんの本家の「才谷屋」の暖簾分けと思われるがやけんど、こちらもこぢゃんと豪商やったようなき、龍馬さんの本家の「才谷屋」と姻戚関係があったかもしれんがよ。
この写真の書状が、その本物ながよ。貴重なブログ初公開ぜよ!
また、黒金屋弥三右衛門の母はこの才谷屋助十郎のところから嫁いできちゅうことが竹村家の家系図に書かれちゅうし、
一方龍馬さんの家系図を見りゃあ、才谷屋八郎兵衛の母は「竹村氏の女」(黒金屋竹村家との血縁は不明)となっちゅうがやき。
つまり、「才谷屋」と「黒金屋」は、姻戚関係があった可能性があるっちゅうことながよ!
さらに極めつけ!こちらもこぢゃんと貴重なブログ初公開!
なんと竹村家の本家にゃあ、龍馬さんの手紙までがあるがぜよ!

こちらがその龍馬さん直筆の手紙ながやけんど、実は本物は現在「高知県立 坂本龍馬記念館」に貸し出され、展示されちょって、この写真のもんは、精密なレプリカながよ。
この龍馬さんの手紙は、甥っ子の高松太郎に宛てたもんで、内容にゃあ、西郷隆盛や小松帯刀の名も出てくるがやき。

龍馬さんが甥っ子に宛てた手紙が、竹村本家にあるっちゅうことは、こりゃ「才谷屋」と「黒金屋」の血縁の可能性がこぢゃんと高うなるっちゅうことを意味しちゅうがぜよ!
その上、佐川の地は維新の志士を大量に輩出しちゅうこと、龍馬さんの脱藩の道にもあたっちゅうことらあを重ね合わせりゃあ、その縁の深さたるや、相当なもんやと言えるがよ!
さらにさらに!司牡丹の命名者は、佐川出身の維新の志士、龍馬さん中岡慎太郎さん亡き後の陸援隊長で、明治新政府の宮内大臣を務めた田中光顕伯爵ながやき!
司馬遼太郎著「竜馬がゆく」の中にも「司牡丹」は登場し、龍馬さんが飲んだ酒やと言われゆうがやけんど、実は龍馬さんの時代にゃあ、まだ「司牡丹」の酒名はつけられてなかったがよ。
もちろん酒名はまだやち、酒自体は存在しちょった訳やし、これっぱあの縁の深さがありゃあ、当然龍馬さんもこの酒を飲んじょったと断言してもえいがやないろかのう。
ほんじゃき、司牡丹は、龍馬さんと最も縁が深い蔵元やっちゅうて言いゆうがぜよ!
前取材に来られちょったディレクターさんも、その証拠の品々や予想を超える縁の深さにビックリ仰天やったがやき!
詳しゅうは、12月頭の本取材と、12月末予定のテレビ放送を、楽しみにお待ちくださいや!
ちなみに、昨日11月25日(水)の日経新聞全国版15面にゃあ、「龍馬の時代の酒と塩辛 再現」っちゅう記事が掲載されちゅうがやけんど、こりゃあ「10月28日」のブログにてご紹介した、坂本龍馬の「船中晩酌」野点箱のことながよ。

こちらも、ディレクターさんがこぢゃんと面白がられよったき、番組内で取り上げられるかもしれんがやき。
さあ、龍馬さんがらみで、いろいろ動き始めたようなき、こぢゃんと面白うなってきたぜよ!
土佐の高知の日本酒蔵元「司牡丹」の公式ホームページは、こちらをクリック!
司牡丹酒造株式会社