2013年04月13日

幸せの言の葉〈671〉

「ワシゃあなにかをするためにこの世にうまれてきたがよ。それを完成したいと思うがやき。ワシゃあ宿命を信じちゅうがぜよ。」(野口英世)


千円札の肖像にもなっちゅう、かの野口英世さんの言の葉ながよ。


「宿命を信じちゅう」っちゅう言葉は、世の中の出来事は全てあらかじめ決まっちょって人間の力じゃあ変えられんとする、運命論者のようにも聞こえるけんど、ここはそういう意味じゃあないと思うがやき。


「運命」と「宿命」は、同じように使われるけんど、ちくと意味が違うと思うがよ。


「運命」は、「命」を「運」ぶと書くき、自分らあの意思で授かった命を運んでゆくっちゅう意味があるがやき。


一方「宿命」は、「命」が「宿」ると書くき、ワシらあがこの世に命を授かった時に、既にワシらあの中に宿っちょったもんを意味するがよ。


つまり、「運命」は自分らあの意思で変えられ、「宿命」は自分らあの意思じゃあ変えるこたぁできんがやき。


けんど、自分らあの意思で変えられんっちゅうたち、そりゃあ運命論者的な意味たぁ違うがよ。


自分の両親が、生まれた時から決まっちゅうんとおんなじで、生まれた時から自分の中に宿しちゅう、魂の傾向性みたいなもんがあって、そりゃあ変えるこたぁできんっちゅう意味ながやき。


それに気づくか気づかんかは、生まれてから後の自分次第ながやけんど、野口英世さんは、おそらく早い段階から、自分の魂の傾向性、つまり自分の「宿命」に気づいちょったがやろう。


ほんじゃき、「ワシゃあなにかをするためにこの世にうまれてきたがよ。」とか、「それを完成したいと思うがやき。」とかっちゅう言葉が出てくるがぜよ。



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