「修業論」(内田樹 著 光文社新書 2013年7月20日発行 760円+税)ながやき。

この新書は、思想家として著名な著者が、合気道の武道家として40年の稽古を通して形作られた「ウチダ哲学」の核心(エッセンス)を、「修業論」としてまとめたもんながよ。
現代を生きるすべての人へ贈る、「修業のすすめ」ともいえる書籍になっちゅうがやき。
武道の修業、なかでも著者が長年稽古をつづけゆう合気道の修業を通じて開発されるべき能力たぁ、「生き延びるための力」やっちゅうがよ。
そりゃあ「あらゆる敵と戦うて、これをたおす」ことを目的とするもんやのうて、「自分自身の弱さのもたらす災い」を最小化し、他者と共生・同化する技術をみがく訓練の体系やっちゅうがやき。
道場での稽古を「楽屋」と位置づけ、道場の外の生業の場を「舞台」とするがよ。
新たな学びを阻止する無知や弱さっちゅうもんを「居着き」ととらえ、これを解除し、「守るべき私」を廃棄する・・・ほいたら修業は自分を、予想もせんかった場所へ連れていくっちゅうがやき。
合気道修業を通じて得たこれらあの身体的実感は、瞑想や祈りっちゅうような宗教の実践とも重なるっちゅうがよ。
修業たぁなにか、強うなるたぁどういうことか、そして信仰たぁ、生きるたぁ・・・正面から問い、それに答えたもんが本書ながやき。
・・・とまあ、オビや表紙カバー裏の要約を一応紹介してはみたけんど、実際に内容を読みゃあ、そんな簡単な言葉で紹介するがが申し訳ないほど、深うて広いもんがあるがよ。
また、四篇から成る論文のラストは、「武道家としての坂本龍馬」っちゅうタイトルやき、実はワシゃあこれにもソソられて本書を購入したがやき。
ほいたら、勿論この龍馬さんの論文も面白かったけんど、全体としてまっこと面白うて、目からウロコを落としたり、思わず唸ったり、膝を打ったりと、こぢゃんと血肉になったっちゅう感覚になって、これが760円(+税)じゃあまっこと申し訳なさすぎやと思うてしもうたがよ。
ほんじゃき、ワシがここで全体の解説をしよったら、それこそこの書籍のページ数を超えてしまいそうなきに、本書の中でワシがグッときて線を引きまくった著者の言葉のごく一部を、以下に抜粋して紹介さいていただきますぜよ。
●現代の子どもは(中略)、「トレーニング」の意味やったらわかるがやき。同一線上をただ前に進み、その努力の成果が距離やタイムとして数値的に考量可能なかたちで示される、ちゅうことの意味やったらわかるがよ。「よーい、どん」で競走を始めて、おんなじトラックをくるくる回ってタイムを競うことの意味やったらわかるがやき。けんど、修業はそういうもんじゃあないがよ。走りゆううちに「自分だっけの特別なトラック」が目の前に現れてくる。新しいトラックにコースを切り替えて走り続ける。さらにあるレベルに達すりゃあ、また別のトラックが現れてくる。また切り替える。そのつどのトラックは、それぞれ長さも感触も違う。そもそも「どこに向かう」かが違う。はっと気がつきゃあ、誰もおらん場所を一人で走りゆう。もう同一のトラックを並走しゆう競走の相手はどこっちゃあにおらん。修業っちゅうんは、そういうもんながやき。
●修業する人は、「自分が何をしゆうがか」を「しおえた後」になってしか言葉にできん。自分に説明できんことを、他人に説明できるはずがない。他人に説明できんことについて、他人との優劣や強弱や巧拙を論じられるはずがない。
●武術の稽古を通じて開発される能力のうちでもっとも有用なもんは、間違いのう「トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する」能力ながよ。
●武術の稽古を通じてワシらあが開発しょうとしゆう潜在能力がどういうもんながかは、戦国時代やち、江戸時代やち、大筋じゃあ変わらんやろうとワシゃあ思うちゅう。そりゃあさしあたりは、実践的な意味での生き延びる力ながやき。戦場じゃあ戦闘能力として示される能力が、平時じゃあ例えば統治能力として顕現する。ちゅうことは、戦闘能力と統治能力を共約する人間的能力が存在するっちゅうことながよ。そりゃあ何か。この問いはそのまんま、「武道修業を通じてワシらあはどのような力を身につけろうとしゆうがか?」っちゅう問いに通じちゅうがやき。この問いに対してのワシの答えは経験的にゃあ自明ながよ。生き延びるためにもっとも重要な能力は、「集団をひとつにまとめる力」ながやき。
●個人的な身体能力をどこまで高めても、どれっぱあ筋骨を強うし、運動を迅速にしたち、あるいはあらゆる反命を許容せんばあに無慈悲になったち、「多数の人間たちがそれぞれの主体的意思に基づいてふるまいもって、それがあたかも一個の身体の各部のように統一された動きをする集団」に敵し得る集団を作るこたぁできんがよ。
●複数の人間らあが完全な同化を達成した集団たぁどのようなもんであり、そりゃあどのようにして構築されるがか。ワシゃあ真に武道的な技術的課題は、そのように定式化できるやろうと思うちゅうがやき。そりゃあ端的に言やあ、「他者と共生する技術」、「他者と同化する技術」ながよ。ワシゃあ合気道たぁ、その技術を専一的に錬磨するための訓練の体系じゃあないかと考えちゅうがやき。
●交響楽を演奏しゆう奏者は、他の楽器の音を聴いてからそれに応じゆうわけやない。応じりゃあ必ず遅れる。聴覚情報の入力があってから反応しよったら、どれっぱあすばやく運動を出力したちハーモニーは生成せん。実際にゃあ、演奏者らあは同時に演奏しゆうがよ。自身の身体的な限界を超え、自分からはみ出して、他の楽器奏者と融合して、一体化しちゅうがやき。オーケストラの全員で構成される「多細胞生物」があり、それが演奏の主体となっちゅうがよ。(中略)メンバー全員を含み込んだ共身体のようなもんが、演奏の主体ながやき。「間髪を容れず」に反応するたぁ、反応せんっちゅうことながよ。他者と主体が一つの共身体に融合しちゅうとき、その共身体に分属しちゅう個々の身体についちゃあ、入力と出力、刺激と反応っちゅう継起的な分節は成り立たん。
●頭上に白刃がきらめき、それが斬りおろされてくる。それがきっかけとなって、「白刃の下に生まれて、まさに斬られようとしゆう主体」がそこに生成する。この生まれたばっかしの主体は「生まれてからずっと白刃の下」におる。「白刃の下」におることが、彼にとっての全人生ながやき。そのような主体にとって、斬りおろしてくる剣の動きは、おそらく少しも「速い」もんたぁ感じられんやろう。なぜなら「速い」っちゅうんは、「遅い」もんとの相対的な比較の中でしか成立せん属性やきながよ。ほんで、「白刃の下で生まれた主体」は、剣の遅速を比較考量すべき経験を持ってないきながぜよ。
●むろん、なかなか理屈通りにゃあゆかん。けんど、この回答が論理的にゃあ正しいはずながやき。「生まれてからずっと白刃の下におる主体」だっけが、その状態を動線の制約とも可動域の縮減ともとらえることのう、のびのびとゆるやかに生きることができる。老いや病や死の切迫によったち少しも相対的に心身のパフォーマンスが下がることのないような主体、少のうたち、心身のパフォーマンスが下がったっちゅう思量をなさん主体、それが「無敵の主体」ながよ。
●「無敵」たぁ、「すでに敵を含んだかたちでこの世界に誕生したもん」として「私」を構想できるマインドセットのことながぜよ。
●武道の目的たぁ「無敵の探求」ながやき。ほんで、「敵」たぁ、広義にゃあ心身のパフォーマンスを低下させるすべてのもんのことながよ。
●「敵」っちゅう概念を、「心身のパフォーマンスを低下させるすべてのファクター」っちゅうふうに広うに定義すりゃあ、「無敵」っちゅう状態は「存在せん」っちゅうことになる。「存在せんもん」は探求しようがない。いきなり袋小路に突き当たってしもうた。けんど、「いきなり」袋小路っちゅうんはえい徴候ながやき。そりゃあ「初期設定が間違うちょった」っちゅうことを意味するきながよ。ワシゃあ実は、「敵」っちゅう語を定義するときに、別のある言葉の定義を言い落としちゅうがやき。「私」ながよ。敵っちゅうんは、「私の心身のパフォーマンスを低下させるもん」ながやき。(中略)当然すぎてその定義の適切性の検証を怠ったことが、「初期設定の間違い」ながよ。古来、武道の伝書が繰り返し教えてきたがは、「私」っちゅう概念を書き換えんと話は始まらんっちゅうことながぜよ。もちろん、武道を修業してきたもんやったら誰やち、「無我無念」とか「則天去私」とか「梵我一如」っちゅう言葉は知っゅう。「我執を捨てんと技芸は上達せん」っちゅう
言葉は誰やち知っちゅう。けんど、その意味がわかっちゅうかどうか。
●「我執を去った我」っちゅうもんは、最初に「私は」と発語した「我」たぁ、まったくの別人(あるいはそもそも「人」やぁない)っちゅうことながやき。「我執を去る」っちゅうんは、「私」に何か有用な技術や実用的な能力を外的に賦与した結果をいうがやのうて、「私」っちゅう概念が解体されてゆく、現在進行形のダイナミックなプロセスそのものを指す、ちゅうことながよ。
●自分が自分の身体を実効的に統御しゆうっちゅう実感を数値によって現認してきたアスリートは、努力の成果が数値的に考量できんっちゅう事態にうまいこと適応することができん。その実例について、大学の同僚であるコレオグラファーの島崎徹先生からうかごうたことがある。バレエ・スクールじゃあ、午前のレッスンが終わった後、生徒らあがそれぞれ自分の課題を練習する時間帯がある、そんときに、生徒らあは例外なしにある動作の練習をする。「世界中どこやち、おんなじです」と島崎先生は言う。彼らはピルエット(片足立ちしての回転)を練習するがやき。(中略)そりゃあなんでか。「回数が数えられるきながよ」(中略)「身体による美的表現たぁ何か?」っちゅう答えのない問いを忌避して、技術向上の数値的な現認を優先させる態度のうちに、島崎先生はバレエの堕落を見る。
●ワシが考えちゅう武道的な意味での「弱さ」と、哲学者が考察する「無知」は、たぶん同一の構造をもっちゅう。そりゃあ、変化することへのつよい抑制のことながよ。ある哲学者によりゃあ、無知たぁ知識の欠如やない。そうやのうて、知識で頭がぎっしり目詰まりして、新しい知識を受け容れる余地がない状態のことを言うがやそうながやき。(中略)何を訊いたち、「そんなこたぁ自分にゃあわかっちょった」と応じるっちゅうんが、実は無知の典型的な様態やっちゅうことは、長うに学者をやってきて知ったことの一つながよ。人はものを知らんきに無知ながやない。なんぼ物知りやち、今自分が用いゆう情報処理システムを変えとうないと思うちゅう人間は、進んで無知になる。自分の知的枠組みの組み替えを要求するような情報の入力を拒否する我執を、無知と呼ぶがやき。
●ほんじゃき、多くの人が考えちゅうがとは違うて、大学教育たぁ、何か有用な知識や技術を「加算」することやあない(そう信じちゅう教師も少のうはないけんど)。そうやのうて、「学び」への衝動の自然な発露を妨害しゆう学生らあ自身の「無知への居着き」を解除することながよ。学校教育がなすべき第一のことは、学生らあの頭にぎっしり詰まって、どろどろに絡みついて、ダイナミックな「学び」の運動を妨げちゅうジャンクな情報を「抜く」ことながぜよ。
●ほいたら、身体の使い方をヴァージョンアップするための稽古法たぁどういうもんか。そりゃあ、「赤ちゃんが母語を習得してゆく過程」に類したもんとなるはずながやき。「知性的になる過程」と言い換えたちえい。何か新しい要素が一つ加わるごっとに、それを受け容れ、組み込めるように、全体の構造が基礎から組み替えられるような、総合的な柔軟性をもつような技法の体系。新しい動きを一つ覚えるごとに、どんどん自由度が増してゆくような技法の体系。
●経験的に言うて、「自分の能力を高める努力」と「競争相手の能力を引き下げる努力」じゃあ、後者の方がはるかに費用対効果が高い。ワシが自分の武道的な能力を高めろうとする努力は、さしあたりワシひとりにしかかかわらんけんど、同門の人々を萎縮さいて、恐れさいて、不安がらせ、能力の成長を阻害し、稽古する意欲を失わせろうとする努力は、高い感染性をもつきながよ。
●ワシゃあある競技武道を稽古しよったときに、指導者から「表情に険しさが足りん」っちゅう注意を受けたことがある。「相手に食いつくような表情をせえ」と言われて、「そりゃ違うろう」とワシゃあ内心で思うた。ホンマに人を殺傷する必要があったときにゃあ(ないことを願うが)、ワシやったら、気配を消したまんま間合いを詰め、無表情、無感情のまんまなすべき仕事をするやろうと思うたきながやき。
●「勝ちたけりゃあ、相手に食いつくような顔をせえ」とワシに言うたその指導者は、武道的な身体運用においちゃあ、おのれの心身の感度を上げることよりか、目の前におる相手=敵を心理的に不快にさいたり、不安にさいたりすること、つまり相手の心身の能力を引き下げる方が、勝ち負けを競う上じゃあ効果的やっちゅうことを経験から知っちょったきに、ワシにゃあそう教えたがやろうと思う。
●競技の本質的な陥穽(かんせい)はここにある。勝負においちゃあ、「ワシが強い」っちゅうことと「相手が弱い」っちゅうことは実践的にゃあ同義やからながよ。ほんで、「ワシを強める」ための努力よりか、「相手を弱める」ための努力の方が効果的ながやき。理屈は簡単ながよ。「ものを創る」っちゅうんはむずかしいし、手間暇がかかるけんど、「ものを壊す」がは容易であり、かつ一瞬の仕事やきながぜよ。100年かけて丹精した建物が一夜の火事で灰燼に帰すように、あるいは10年かけて築いた信頼関係が、わずか一言の心ない言葉で崩れ去るように、創るがはむずかしゅうて、壊すがは易い。ほんじゃき、相対的な優劣・強弱・勝敗に過剰に固執すりゃあ、人は無意識のうちに、同じ道を進む修業者らあの成長を阻害するようになる。こりゃあ修業者ひとりひとりの倫理性や人格の問題やのうて、構造的にそうながやき。その方が合理的やと思うきに、人々はそうしゆうがやって、属人的な資質たぁ関係ない。
結局、4篇の論文の最初の1篇「修業論・・・合気道私見」(本書の約半分)のグッときた言葉を紹介するだっけで、これっぱあ長いブログになってしもうたがよ。
まだまだいっぱい、本書にゃあ珠玉の言葉や表現が、あふれちゅうがやき。
武道家はもちろん、スポーツ選手やち、ビジネスパーソンやち、学生さんやち、現代を生きる誰にやち、生きるためのヒントを与えてくれるはずながよ。
「修業論」・・・修業っちゅう言葉が死語化しつつある時代やからこそ、まさに読んじょくべき書籍ながぜよ。
土佐の高知の日本酒蔵元「司牡丹」の公式ホームページは、こちらをクリック!
司牡丹酒造株式会社