2014年07月06日

幸せの言の葉〈802〉

「心たぁ、満たすべき『器』やのうて、燃やすべき『炎』ながぜよ。」(プルタルコス)


古代ギリシャの哲学者、プルタルコス(英語名:プルターク)さんの言の葉ながよ。


この言の葉の「心」の部分は、訳し方によっちゃあ「精神」になっちょったり、「知性」になっちょったりするがやけんど、「心」やろうが「精神」やろうが「知性」やろうが、それを何かを入れて満たす「器」のようなもんとしてとらえるがやのうて、そりゃあ燃やすべき「炎」としてとらえるべきやっちゅうことながやき。


「心」も「精神」も「知性」も、何かを学んだり理解したり体験したりすることによって「満たされる」と、そう考えちゅう人が少のうないがやないろうか?


けんど実は、それだっけじゃあ、「心」も「精神」も「知性」も、真に「満たされる」こたぁないがよ。


それらあが真に「満たされる」にゃあ、「情熱」っちゅう火種によって燃やされ、「炎」にならにゃあイカンっちゅうことながやき。


「心」も「精神」も「知性」も、「情熱」っちゅう火種があってこそ「炎」となって燃えることができ、そうなることによって初めて、真に「満たされる」んやっちゅうことながぜよ。



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