「一人の人間の歴史において、もっとも重要なことは、その人が何を目的としたかっちゅうことぜよ。」(ジョン・ラスキン)
19世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・思想家の、ジョン・ラスキン(1819〜1900)さんの言の葉ながやき。
なんで、何を成したかやのうて、何を目的としたかが、もっとも重要ながやろうか?
世の中は、こっちが正しゅうて、あっちが間違うちゅうっちゅうような、そんな単純明快なこたぁ、実際にゃあ滅多にないがよ。
こっちが正しいかもしれんけんど、あっちも正しいかもしれんっちゅう、難しい問題の場合の方が、現実にゃあ多いがやき。
ほんで、こっちの意見を採用したとして、歳月を経て、結果としてうまいこと行って、「やっぱし、こっちが正しかった!あっちは間違うちょった!」っちゅうようなことが分かったりするがよ。
成したことだっけで言うたら、こっちを取っちょったら「偉業を成した!」っちゅうことになり、あっちを取っちょったら「何も成してない!」っちゅうことになるがやき。
前者は勝者であり、後者は敗者っちゅうことになるけんど、たとえ後者やち、もしかしたら素晴らしい目的を持っちょったかもしれんがよ。
幕末の勤皇の志士やち、佐幕派の武士やち、どっちもこの国のためになると信じて、えい国をつくるっちゅう目的を持って、必死に行動したっちゅうことながやき。
ほんじゃき、佐幕派は結果としちゃあ敗者かもしれんけんど、佐幕派の武士にも素晴らしい方々がいっぱいおるっちゅうことながよ。
たとえば、日本を滅亡させるっちゅう目的を持って、勤皇の志士の活動をしよった人がもしおったとしたら、成したことは素晴らしかったかもしれんけんど、目的としちゃあ人間として最低やっちゅうことながやき。
一人の人間として見りゃあ、何を成したかっちゅうことよりか、何を目的として生きたかが、その人の真の人間的な価値になるっちゅうことながぜよ。