「諸君、ちんまい完成品になっちゃあイカンぜよ。高等学校の教育は大きな未完成品を作るための教育ながやき。」(橋本文夫<阿川弘之著「エレガントな象」より>)
ドイツ語学者で中央大学名誉教授の橋本文夫(1909〜1983)さんが、旧制広島高等学校ドイツ語教授時代に語られた言葉を、当時学生やった文化勲章受章の小説家・阿川弘之(1920〜2015)さんが「エレガントな象」(文藝春秋)の中で紹介されちゅうがよ。
高等学校時代に限らんと、人間っちゅうんはいくつになったち、ちんまい完成品になったらイカン、大きな未完成品であらにゃあイカンがやないろうか。
完成品になるっちゅうことは、そこで進歩が止まるっちゅうことを意味しちゅうきながやき。
人間を1つの「球体」にたとえるとすりゃあ、子供の頃は「ちんまい球体」やったがが、いろんなことに挑戦したり失敗したり学んだりしもって、「球体」のアチコチにイビツな「トンガリ」ができていくがよ。
この「トンガリ」がドンドン増えていきゃあ、いつしか「ちんまい球体」は「大きな球体」に限りのう近づいていくがやき。
つまり、より器の大きい人間、より懐の広い人間になっていくっちゅうことながよ。
さらに、もし「大きい球体」になれたとしたち、そこで完成品になっちゃあイカンき、さらに「巨大な球体」になるために、再びアチコチに「トンガリ」を作り続けにゃあイカンっちゅうことながやき。
パチンコ玉ばあのちんまい完成品で一生を終えたいかよ?
地球ばあの、さらにゃあ太陽ばあの球体を目指す、巨大な未完成品で一生を終えたいたぁ思わんかよ?