5月13日(日)は、ワシが理事長を務めさいてもらいゆう「土佐学協会」(http://tosagaku.cocolog-nifty.com/report/)主催の「第12回・土佐学大会」やったがぜよ。
ちなみに昨年の「第11回・土佐学大会」についちゃあ、「2017年6月15日」と「2017年6月16日」のブログをご参照くださいや。
ほんで、「第12回・土佐学大会」は、高知県立大学・高知工科大学の永国寺キャンパス教育研究棟のA101教室にて13時半から開会やき、12時過ぎばあにワシゃあ会場に入ったがやき。
既に高知県立大学の熱血「清原ゼミ」の生徒さんらあと清原先生が、受付や会場の準備らあを、バッチリやってくださっちょったがよ。
毎年のことながら、感謝感謝ながやき。
また、ワシらあのこの1年間の集大成、「土佐学年報・第12号」(〜たまるか!土佐がはみかえる〜)が、遂に完成しちょったがよ。
今回の表紙は、松崎淳子先生(土佐学協会副会長・土佐伝統食研究会代表・よい食生活をすすめるネットワーク会長・高知県立大学名誉教授)のご指導のもと作られた、土佐田舎寿司ながやき。
年報の編集をご担当いただきました清原先生、まっことありがとうございますぜよ!
13時ばあからは、ボチボチご参加者の皆さんも集まられ、結局最終的にゃあ50名を超える皆さんにご参加いただけたがよ。
さて、今回の大会は、明治維新150年記念講演と銘打ち、「山内家第19代当主が語る明治維新150年」がテーマながやき。
13時半にゃあ、理事長のワシの司会にて開会ながよ。
まずは成田十次郎会長さんの開会のご挨拶があったがやき。
続いては司会のワシから、お1人目の講師の高知城歴史博物館学芸員の高木翔太さんをご紹介さいていただき、講演「明治維新と土佐藩〜戊辰戦争に至るまで〜」のスタートながよ。
はじめに、「明治維新150年」っちゅうけんど、「維新」たぁ「これ新たに」っちゅう意味やき、「改革」のことながやき。
ほいたら、何が改革されたがか、何が変わったがかっちゅうたら、その根本は、「徳川幕藩体制から天皇親政体制へ」っちゅうことながよ。
次に、そんなふうに変わったがはいつかっちゅうたら、実は150年前の明治元年(1868年)やのうて、明治2年6月の「版籍奉還」と明治4年7月の「廃藩置県」のどちらかを取る研究者が多いっちゅうがやき。
ほんで、「江戸時代の社会システム」と「版籍奉還後の社会システム」と「廃藩置県後の社会システム」を図で示され、分かりやすう語ってくださったがよ。
次に、「維新・改革の要因と土佐藩」についてやけんど、「版籍奉還」や「廃藩置県」に至る前段階としての「戊辰戦争」についちゃあ、現在「高知城歴史博物館」にて開催中の「明治元年の日本と土佐〜戊辰戦争 それぞれの信義〜」をご覧くださいやっちゅうて、ちくとPRされたがやき。
続いては、「前史(18世紀〜) 薩長土肥を比較して」で、藩財政の再建についちゃあ、薩長肥の3藩は殖産興業政策を中心に総合的に藩政改革を実施し、藩財政を再建し、雄藩としての実態を備えはじめちょったけんど、土佐藩は、財政再建に失敗し、雄藩としての素地を形成できんまんま、天保期を迎えたっちゅうがよ。
その後、天保改革(1830〜)でも土佐藩は改革に失敗し、次の安政改革(1853〜)で山内容堂による吉田東洋の起用により、財政再建が成功し、文武館の設立や教育整備などが進み、やっと雄藩としての素地が形成されたっちゅうがやき。
続く安政の大獄(1858〜)じゃあ、将軍継嗣問題(一橋派VS南紀派)で容堂は一橋を推して敗れ、謹慎となり、16代山内豊範が家督を継ぐことになるがよ。
ほんで、武市瑞山を中心とする土佐勤王党が台頭し、吉田東洋は暗殺されてしまうがやき。
けんど、結果として、土佐藩内じゃあ、東洋も勤王党も嫌いな保守派が巻き返し、土佐勤王党員は藩外へ脱藩せにゃあイカンなるがよ。
ところが、1860年の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、文久改革(1862〜)が始まるがやき。
課題は富国強兵、公武合体か尊皇攘夷か。
土佐藩じゃあ山内容堂が帰国復帰し、人事を刷新。
東洋の教えを受けた後藤象二郎が富国を、板垣退助が強兵を担い、土佐藩は雄藩の一角へ進み出るがよ。
けんど一方で、土佐勤王党員は軒並み投獄され、武市瑞山は切腹、土佐藩は公武合体路線に舵を切るがやき。
ところが、公武合体路線は挫折、土佐藩は倒幕か討幕かを選ぶしかないなるがよ。
ちなみに倒幕たぁ、幕府は倒すけんど徳川家は残す路線(土佐藩)、討幕たぁ徳川を討つっちゅう路線(薩長)やっちゅうがやき。
結果、慶喜が大政奉還(1867)を成し、倒幕派の土佐藩が成功したかに見えたけんど、討幕派の薩長が新政府を樹立し、「錦旗」を利用して戊辰戦争に突入していくことになるがよ。
こうなりゃあ土佐藩も、戊辰戦争に参加せざるを得んなり、討幕派となっていくがやき。
幕末に雄藩としての軍事力を備えた土佐藩は、戊辰戦争にて、薩長に次ぐ三番目の評価を受けるばあ活躍し、版籍奉還を上表する四藩(薩長土肥)に名を連ね、御親兵(薩長土)の軍事力を背景に廃藩置県も成し、その後高知県になってからも、民選議院設立建白書の提出や自由民権運動と、歴史の中心となって活躍することになるっちゅうがよ。
通史と全国史を踏まえて土佐史を振り返るっちゅうご講演は、まっこと面白うて、こぢゃんと学びになったがやき。
高木学芸員さん、まっことありがとうございましたぜよ!
さて続いては、いよいよお殿様の登場!
司会のワシから、2人目の講師・山内豊功(とよこと)さん(山内興業株式会社社長)をご紹介さいてもうて、講演「山内家第19代当主が語る明治維新150年」がスタートしたがよ。
まず、自分の専門は化学で、歴史は専門やないき、我が家の歴史として、容堂を中心とした山内家の歴史としてお聞きくださいっちゅうて語られたがやき。
ほんで、高知市のシンボルともいえる鏡川と筆山は、5代藩主豊房が名付けたとされちゅうっちゅうがよ。
この筆山にゃあ、一昨年国の史跡に指定された山内家墓所があるっちゅうがやき。
歴代藩主の墓がここにあるがやけんど、容堂だっけは東京で亡くなり、品川に葬られちゅうっちゅうがよ。
墓石の形や文章らあからやち、思わん発見があったりするっちゅうて、13代豊凞と14代豊惇の墓石の銘文について、紹介されるがやき。
まず13代豊凞は、嘉永元年6月16日に亡くなり、その2週間後に息子も亡くなり、土佐藩としちゃあこのまんまやとお家断絶やっちゅうことで、その死は伏せられ、豊惇を養子に定めて幕府に提出し、それが認められてから、嘉永元年7月10日に豊凞は死去したっちゅうことになっちゅうがよ。
豊凞の墓石にゃあ、ホンマに亡くなった日の6月16日が刻まれちゅうがやき。
ところが、跡継ぎとして幕府に認められたばっかしの14代豊惇も、嘉永元年9月18日に亡くなってしまうがよ。
またもやお家断絶の大ピンチ!
豊惇の死は伏せられ、親戚筋から豊信(後の容堂)が推され、15代に就任し、幕府から家督相続を認められてから、豊惇の死は発表されたがやき。
ちゅうことで、14代豊惇の墓にゃあ、嘉永2年2月28日に亡くなったと刻まれちゅうけんど、実際に亡くなったがは、嘉永元年9月18日やっちゅうがよ。
さて、若い頃の豊信(容堂)は、あんまり学問を好まんと、父から叱責されたこともあるようやけんど、実は主体的な学問に徹した人で、地頭は良うて、頼山陽らあにも通じちょったっちゅうがやき。
また、容堂の性格を豊功さんは、一言で言やあ「韜晦(とうかい)」やと表現されるがよ。
「韜晦」たぁ、自分の本心や才能・地位らあを包み隠すことで、容堂にゃあ自分の本心は明かさんと、周りを煙に巻くようなところがあったようやっちゅうがやき。
そんな容堂は、雄藩や言うたち外様大名やき、幕府の政策らあに意見を出すことらあて、平時やったら不可能やったがが、ペリー来航によって意見が言えるようになり、初めて頭角を表すっちゅうがよ。
外様にも意見を求められた際に、ハッキリと主張したがが容堂やったっちゅうがやき。
たまたまの巡り合わせで藩主になった容堂と、たまたま彦根藩主となり大老となった井伊直弼は、おんなじような境遇やけんど、後に大激突することになるっちゅうがよ。
ちなみに容堂が幕府に提出し認められたっちゅう上表文は、吉田東洋が書いたと言われちゅうがやき。
実は参政・吉田東洋は、元は長曽我部の家臣やったっちゅうがよ。
家柄や身分らあに関係のう、容堂が人材を登用しちゅうっちゅう、何よりの証拠やないろかのう。
吉田東洋、山内容堂、井伊直弼、彼らはみんなあ元はトップにゃあ立てん立場の人間やったっちゅうんは、まっこと歴史の因果っちゅうか、運命的やといえるがやき。
次に、容堂と武市瑞山の確執についてのお話があったがよ。
豊功さんいわく、武市は理論派で、理論に現実を合わせにゃあイカンっちゅうタイプやけんど、容堂は理論と現実を融合させて考えにゃあイカンっちゅうタイプやき、なかなか相容れんろうっちゅうがやき。
こりゃあ、どっちが正しゅうてどっちが間違いとかは言えん話で、時代の変化によって変わって行くっちゅうことながよ。
この点は、意味深い教訓になるがやないかっちゅうがやき。
また、容堂の2つの手紙の言葉を紹介されたがよ。
まず1つ目は、幕末の四賢候の1人伊達宗城に宛てた手紙にゃあ、「自分にも志があり、開国になったら自ら海運業を起こし、世界を飛び回りたい」っちゅうて書いちゅうっちゅうがやき。
まっこと、龍馬、岩崎弥太郎とおんなじように、陸の孤島で太平洋を眺めよった土佐人は、こういう考えに至るがじゃろうかっちゅうがよ。
次の手紙は、これまた四賢候の松平春獄にに宛てたもんながやき。
こちらにゃあ、「大事を成すにゃあ、どんなに大変な時やち、心に『閑』の字を掲げてドッシリと落ち着いちょらにゃあイカン」っちゅうて書かれちゅうっちゅうがよ。
こちらは、容堂の性格からすりゃあ正反対やき、こりゃあ自戒の意味で書かれたがやないかっちゅうがやき。
続いては、豊功さんが祖父である17代豊景さんから直接聞かれたっちゅう貴重なお話を語られたがよ。
豊景さんの父である16代豊範さんは、よう酒を飲んで泣くことがあったっちゅうがやき。
ほんで、「半平太(武市瑞山)のことを思うと涙が流れる。助けてやりたかった。」っちゅうて、涙を流しもって語られたっちゅうがよ。
このリアルな逸話にゃあ、まっこと鳥肌が立つばあ、グッときたがやき。
ほんで最後に、明治維新の改革に限らず、どんな場合やち言えるこたぁ、「ヒーローだけじゃあ時代は変わらん」っちゅうことやっちゅうて、締め括られたがよ。
こうして拍手喝采の中、山内豊功さんのご講演は終了したがやき。
この後は、講師のお2人に対して質疑応答があり、盛り上がったがよ。
さて、ちくと長うなってしもうたき、この続きの「後編」は、明日のブログに譲らいていただきますぜよ。
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