「自由と我儘(わがまま)との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあるぜよ。」(福澤諭吉)
日本の武士(中津藩士のち旗本)・蘭学者・著述家・啓蒙思想家・教育者で、慶應義塾創立者であり、かの「学門のすすめ」の著者でもある、福澤諭吉(1835〜1901)さんの言の葉ながやき。
人間にとって、自由っちゅうんはまっこと大事なことながやけんど、単なる我儘(わがまま)までを自由と捉えちゃあイカンがよ。
かの福澤諭吉さんは、自由と我儘の境目を「他人の妨げ」で表現されちゅうがやき。
すなわち、何か他人の妨げをしちゅう場合は「我儘」、他人の妨げをしてない場合は「自由」やっちゅうがよ。
「我儘」っちゅうんは「我が思うまま」っちゅう意味やろうき、他人や周りらあ関係のうて自分の思うとおり、やりたい放題っちゅうことやき、他人の妨げらあしまくりっちゅうことながやき。
一方「自由」の場合は、何が違うかっちゅうたら、他人や周りを「慮(おもんぱか)ることができる」っちゅうことながよ。
つまり「自由」っちゅう概念は、「慮りの心」がなけりゃあ単なる「我儘」に堕するっちゅうことでもあるがやき。
自由と民主主義を掲げちゅうこの国の「自由」に、いま「慮りの心」はどれっぱあ存在しちゅうやろうか?