今回もお薦め書籍で、先月発売されたばっかしの新書、「日本文化の核心」〜「ジャパン・スタイル」を読み解く〜(松岡正剛 著 講談社現代新書 2020年3月20日発行 1000円+税)をご紹介さいていただきますぜよ。
この書籍は、日本文化研究の第一人者として「日本という方法」を提唱し独自の日本論を展開しゆう、編集工学研究所所長でイシス編集学校校長の松岡正剛さんの、「松岡日本論」の集大成といえる書籍ながやき。
350ページにおよぶその内容は、「濃い日本」を解読し、この国の“深い魅力”を理解するための、多岐に渡る内容が網羅されちょって、新書たぁ思えんばあ厚いがよ。
しかも著者は、「日本文化はハイコンテキストで、一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある」っちゅうて「はじめに」で断言しちゅうばあながやき。
こう紹介してしもうたら、とても読めそうにないっちゅうて、ドン引きされてしまいそうやけんど、これがメチャクチャ面白うて、ハマリまくって読みふけってしもうて、ワシゃあ数日で読了してしもうたがよ。
何でかゆうたら、全体じゃあ350ページもあるがやけんど、中身は「16講」に分かれちょって、「1講」がだいたい20ページばあのもんやき、実は意外に読みやすい構成となっちゅうがやき。
確かに内容は、かなりディープな部分も多うて、わかりにくい表現らあも少のうないがやけんど、自分が興味を持った「構」だっけをピックアップして読むっちゅう読み方もできるき、その読み方で進みよったら、面白いもんやき、いつの間にか全部を読み終えてしもうちょったっちゅうことになりそうな、そんなお薦め書籍ながよ。
ほいたら参考までに、その全「16構」のタイトルとサブタイトルを、以下にご紹介しちょきますぜよ。
【第一構:柱を立てる】古代日本の共同体の原点「柱の文化」から話を始めろう。
【第二構:和漢の境をまたぐ】「中国語のリミックス」で日本文化が花開いた。
【第三構:イノリとミノリ】日本人にとって大切な「コメ信仰」をめぐる。
【第四構:神と仏の習合】寛容ながか、無宗教ながか。「多神多仏」の不思議な国。
【第五構:和する/荒ぶる】アマテラスとスサノオに始まる「和」の起源。
【第六構:漂泊と辺境】日本人はどういて「都落ち」に哀愁を感じるがか。
【第七構:型・間・拍子】間と「五七」調の型と拍子にひそむ謎。
【第八構:小さきもの】一寸法師からポケモンまで。「日本的ミニマリズム」の秘密。
【第九構:まねび/まなび】世阿弥が説く学びの本質。現在日本の教育に足りんこと。
【第一〇構:或るおおもと】公家・武家・家元。ブランドとしての「家」について。
【第一一構:かぶいて候】いまの日本社会に足りん「バサラ」の心意気。
【第一二構:市と庭】「庭」「お金」「支払い」に込められた日本社会の意外性。
【第一三構:ナリフリかまう】「粋」と「いなせ」に見るコードとモードの文化。
【第一四構:ニュースとお笑い】「いいね」文化の摩滅。情報の編集力を再考する。
【第一五構:経世済民】日本を語るために、「経済」と「景気」のルーツをたどる。
【第一六構:面影を編集する】一途で多様な日本。「微妙で截然とした日本」へ。
ほいたらこの多岐に渡るディープな内容から、ワシがこぢゃんと惹かれた部分の一部を、以下にご紹介さいていただきますぜよ。
まずは「第二構」に、「紀貫之の革命」っちゅうパートがあるがやき。
著者はまず、太安万侶が稗田阿礼に口述さいて、それを漢字四万六千二十七文字で「古事記」に仕上げたっちゅう史実を、漢字を音読みと訓読みに自在に変えて、音読みにゃあ後の万葉仮名にあたる使用法を芽生えさいたっちゅうて、これを第一次日本語認知革命やっちゅうて絶賛しちゅうがやけんど、紀貫之の実験は第二の日本語認知革命やっちゅうがよ。
まず貫之は、「古今和歌集」を編纂する際に、その序文に「真名序」と「仮名序」っちゅう漢和両方の序を付けちゅうがやけんど、真名序じゃあ中国における漢詩のルールと目的を掲げ、仮名序じゃあそれを日本に移した場合の和歌独特の変化のスタイルと狙いを書いたっちゅうがやき。
さらに、貫之の実験は、「土佐日記」において前代未聞のもんとなったっちゅうがよ。
当時、日記は男性貴族が漢文で書くもんと決まっちょったに、「土佐日記」は男の貫之が女になって書かれちょって、さらに漢字やのうて仮名で書かれちゅうがやき、「和漢の境」と「男女の境」を二重にまたいだ仮想実験やったっちゅうがやき。
この仮想実験はあっちゅうまに多大な影響力をもたらし、女房らあが仮名日記や仮名文章を好きに書くようになり、「枕草子」も「更級日記」も「源氏物語」も「和泉式部日記」も、こうして生まれたっちゅうがよ。
こりゃあ単なる女房文学の誕生らあじゃあのうて、紀貫之が日本語認知革命を起こし、日本人の思考プロセスに新たな方法による開示が可能なことを教えたがやっちゅうがやき。
「土佐日記」についちゃあ、ある程度は知っちょったけんど、まさかそれほど革命的な存在やったたぁ、ワシゃあまっこと目からウロコやったがよ。
次に「第一二構」に、「かぶいて候」っちゅうパートがあるがやき。
「かぶく」っちゅうんは歌舞伎の語源でもあるけんど、「傾く」っちゅうことやき、いささか多様で、ちょっと大袈裟で、何かが過剰で、どっか異様なもん、それが傾奇(かぶき)やっちゅうがよ。
さらに著者は、中世にも「かぶき者」に似た連中がおって、こちらは「バサラ(婆娑羅)」と呼ばれたっちゅうがやき。
派手な恰好をして、大きな鉄扇をかざし、権威を嘲笑うて風流を好んだ、そんな武士らあのことながよ。
バサラは、この過度な様子を表した言葉で、当時は「過差(かさ)」とも言われ、英語で言やあ、“too much”っちゅう意味で、さしずめ「やりすぎ」「派手すぎ」「人目を引きすぎ」っちゅうことながやき。
ほんで著者は、21世紀の日本文化を活性化させるにゃあ、一方じゃあ伝統文化や伝統芸能の中の「バサラっぽいもん」「歌舞伎っぽいもん」を溢れ出させることと、他方じゃあ近現代日本の表現力の中から過剰なもんや密度の濃いもんやパンクアートや大胆な劇画や過激なアニメのようなもんをふんだんに並べてみることが、かなり重要なことやろうと思うちゅうっちゅうがよ。
それっちゅうんは、今日の日本社会はコンプライアンスに惑わされ、監視カメラと賞味期限に縛られ、安全安心なところでしか仕事ができんようにしちょって、とにかく仕事場だけやのうて、学校でも家庭でも“too much”を見せたらアウトの社会になっちゅうっちゅうがやき。
セクハラ、パワハラらあ、もってのほかながよ。
そこで自粛ながか、自己規制ながかは分からんけんど、多くの現象や表現が衛生無害なもんに向こうちょって、このまんまじゃあ和風に整うた和霊(にぎたま)はともかく、荒ぶるもん(※「和」と「荒」は日本文化じゃあ一対。)まですっかり縮こまってしもうちゅうっちゅうがやき。
こりゃあ「監視社会」であり、「忖度社会」やっちゅうがよ。
バサラやカブキの精神にゃあ「出る杭は打たれる」たぁ反対の気骨が流れてきちょって、出る杭になったち怖れんようにするっちゅう精神やっちゅうがやき。
そのためにゃあ、ときにゃああえて「過差」に言及してみることも大事やっちゅうがよ。
著者は、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」っちゅう「悪人正機説」の「悪」たぁ、“bad”やのうて、“too much”やっちゅうがやき。
親鸞は念仏によって「悪」っちゅう“too much”からの逆転を計ったっちゅうがよ。
ほんで、この「講」のラストに著者は、極端を封じよったら、本当の「中道」が見えんなるっちゅうて語るがやき。
「ワシゃあ現状の日本がコンプライアンスを破るもんに目くじらを立てたり、罰則をもうけろうらあてしよったら、本当の『中道』がうんと遠うなるやろうと危惧しゆうがよ。今日の日本にバサラやカブキ者の気骨が失われちゅうことは残念なかぎりながやき。派手な格好をしてほしいっちゅうがやのうて、親鸞の精神が派手やと思えるようになってほしいがぜよ。」
確かに著者の言うとおりで、「バサラ」の心意気だけでも、この現代日本社会に取り戻したいもんながよ。
わずか「二講」のごく一部しかご紹介できざったけんど、これだっけやち、その内容のディープさと面白さは、ちったぁ伝わったがやないろうか。
「日本文化の核心」〜「ジャパン・スタイル」を読み解く〜・・・日本文化について理解を深めたいやったら、まさに必携の書籍ながぜよ。
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