
昨日の高知新聞朝刊にも、「ライオン宰相 あす生誕150年」っちゅうて、1面の一部と16面全面にドカンと掲載されちょったき、ご覧になった方々も少のうないろう。
実は、浜口首相は司牡丹と縁が深うて、当社の社宝にも関係しちゅうもんやき、今回はそのあたりについてを、ちくとご紹介さいていただきますぜよ。
まず浜口首相のプロフィールやけんど、明治3年(1870年5月1日)、現在の高知市五台山に水口家の三男として生まれちゅうがよ。
その後、安芸郡田野町の浜口家の養子となり、東京帝国大学を卒業して大蔵省へ入省。
大正4年(1915年)高知県から衆議院議員に当選、大蔵大臣、内務大臣らあを務め、昭和2年(1927年)立憲民政党が結成されりゃあ、初代総裁に推されて就任しちゅうがやき。
ほんで、昭和4年(1929年)に、高知県出身の初の総理大臣となったがよ。
総理就任後は、金解禁を断行、協調外交を展開し、昭和5年にゃあロンドン軍縮条約調印の難事業を成功させる等、命懸けの政治をつらぬかれちゅうがやき。
同年11月、東京駅にて右翼青年に狙撃されて凶弾を受け、そん時に語ったと言われる「男子の本懐」っちゅう言葉はこぢゃんと有名で、この言葉をタイトルに、城山三郎さんの傑作政治・経済小説も生まれちゅうがよ。
その後、その傷が治りきらん中で国会に登壇するらあの無理がたたり、翌年の昭和6年(1931年)、亡くなられちゅうがやき。
高潔で私心がのうて、将来を見わたす見識と我慢強い政治力を持ち、ライオン宰相っちゅう異名で呼ばれた浜口首相。
「政治を国民道徳の最高とせよ」の政治観をつらぬき、「一点の汚点も残さん政治家」っちゅう賛辞がおくられたがぜよ。
さて、そんな浜口首相と司牡丹との縁についちゃあ、次の通りながよ。
昭和5年(1930年)、浜口首相から司牡丹に対し、「芳醇無比」っちゅう賛辞の一筆が届けられたがやき。

その手紙の日付は10月となっちゅうき、東京駅での受難のわずか1ヶ月ばあ前っちゅうことながよ。
実は、浜口首相が以前から司牡丹を愛飲されゆうっちゅうて秘書さんから聞いちょったもんやき、当社からその秘書さんを通じて司牡丹を贈らいてもうちょったがやき。
この手紙は、その御礼として届けられたもんやったがよ。
ほいたら、司牡丹の名付け親でもある、佐川町出身の維新の志士、坂本龍馬さん中岡慎太郎さん亡き後の陸援隊長・田中光顕伯爵(宮内大臣らあを歴任)が、この話を伝え聞かれて、「ワシも何か言葉を添えろう」っちゅうて連絡があったっちゅうがよ。

田中伯の要望どおり、浜口首相の手紙を送り届けたところ、何とその手紙と自身の一筆も合わせて巻物に表装し、「芳醇無比乃巻」っちゅう箱書きまでした桐の木箱に収められて、司牡丹に贈り届けられたがやき!
田中伯の一筆にゃあ「空谷と 名にはよべども水音も 跫音も高く 世にとどきけり」、「酒の名の 牡丹は獅子によりてこそ 高くかほらめ 千代の世までも」の二首がしたためられちょったがよ。
一首目の「空谷(くうこく)」たぁ、浜口首相の雅号やけんど、「水の無い谷」っちゅう意味になるがやき。
つまり一首目は、「水の無い谷っちゅう名前やに、水音も足音も高う響きわたるばあ、その名は世の中に轟いちゅうぜよ!」っちゅう、浜口首相を誉め讃える歌ながよ。
二首目の「獅子」はライオン宰相の異名から、ほんで百花の王「牡丹」は百獣の王「獅子」たぁ切っても切れん関係ながやき。
つまり二首目は、「ライオン宰相浜口雄幸首相によって誉め讃えられた司牡丹は、その名の通りいつまでも酒の王者であるこたぁ間違い無しぜよ!」っちゅう意味になるがよ!
ちなみにこの話にゃあ、まだ後日談があるがやき。
その後、田中伯より手紙が届き、「ずうっと気になっちょったけんど、やっぱし下の七字の<千代の世までも>は、<のちの世までも>の方がえいっちゅうて、佐々木信綱博士にも言われたきに書き直したい。面倒やけんど送り返してほしい。」っちゅうがよ。
間ものう、改めて書き直されたもんが、再び表装されて届けられたがやき。
「酒の名の 牡丹は獅子によりてこそ 高くかほらめ のちの世までも」

これが、浜口雄幸首相と田中光顕伯爵の合作、現在も司牡丹酒造に所蔵されちゅう社宝、「芳醇無比乃巻」ながよ!

コロナ禍で政治も経済も、全てが乱れに乱れちゅう今、「政治を国民道徳の最高とせよ」の政治観をつらぬかれた、高知県出身初の総理大臣・浜口首相を偲んで、首相愛飲の「豊麗司牡丹」(純米酒)にて、今夜は献杯さいていただきましょうかのう!
土佐の高知の日本酒蔵元「司牡丹」の公式ホームページは、こちらをクリック!
司牡丹酒造株式会社