12月8日(火)は、18時から「料亭 濱長」さんにて、土佐経済同友会「人づくり委員会」の2020年度第5回委員会が開催されたがやき。
今回は、土佐史談会の理事でもある、ひまわり乳業株式会社の吉澤文治郎社長さんに講演していただいた後に、委員会として忘年会を開催する予定で、この会場となったがやけんど、高知県においてもついに新型コロナウイルスの第3波が襲来してきたっちゅうことで、委員会としての忘年会は中止することになり、講演後は、正副書記会メンバーのみの少人数での忘年会となったがよ。
ちなみに今年度の「人づくり委員会」は、中田委員長さんが全く新しい基本方針を掲げて船出しちゅうがやき。
その基本方針は、以下の通りながよ。
「人づくり委員会では、委員会の活性化に繋がるよう『見える化』を図りながら、運営方針にもある『土佐文化の継承人材の育成支援』をテーマとして取り上げる。なかでも高知県ならではのウリになり、かつ今後の継承が危ぶまれている『土佐の伝統文化』について、その種類や歴史等を調査・研究し、現状把握。それぞれの『土佐の伝統文化』が抱えている、『継承人材の育成』についての問題点等を炙り出す。その上で、県・市町村にも参画していただき、『土佐の伝統文化』の人づくりを支援する団体の設立を提言できるように努める。このような『土佐の伝統文化』が持続可能となれば、より魅力的な高知県となり、必ずや経済発展にも繋がるものと考える。」
ほんで、これまでの流れとしちゃあ、以下のとおりながやき。
委員会メンバーの「料亭 濱長」女将の濱口さんから、これまで土佐の「おきゃく文化」を支えてきた「土佐芸妓」は、現在「濱長」に1人(女将の娘さん)おるだっけで、いまやその継承は風前の灯火やっちゅうお話があったがよ。
高知県にとっちゃあ、最大のウリの1つやといえるもんは間違いのう、土佐の「おきゃく文化」ながやき、それを支える大きな柱であるはずの「土佐芸妓」に、支援も補助も何ちゃあないっちゅうんは、確かにちくとおかしいがやないかっちゅうて、皆さん感じはじめたがやき。
ほんで、ワシから、近年他県の芸妓組合らあで、消え去りかけちょったもんが復活したっちゅう事例についての資料を皆さんに配らいてもうて、ちくと説明さいてもうたがよ。
どこの事例も、だいたい地元の経済人らあが応援して、減り続けよった地元の芸妓文化を復活さいたっちゅうパターンやったがやき。
そんな流れの中で、「土佐史談会」にも所属されちゅう吉澤文治郎先輩に「土佐芸妓の歴史」らあについて講演していただき、その後は忘年会を開催するっちゅうことに決定し、今回の講演会となったっちゅう流れながよ。
さて、まずは中田委員長さんから開会のご挨拶があり、早速吉澤社長さんの講演のスタートながやき。
まず、慶応4年に鏡川で開催された「夕涼み会」についての文献の紹介と、その解説があったがよ。
とにかく、川原にありとあらゆる店がズラリと300軒ばあ立ち並び、物凄い人出で、大勢の老若男女が踊ったり歌うたりしもって夜を過ごしたっちゅうがやき。
象徴的ながが「のえくり」で、前の人の腰に手をかけて、何十人、何百人が連なって蛇みたいにうねりもって歩き回るっちゅうもんで、幕末の土佐で異常流行したっちゅうがよ。
ちなみにその様子は、真覚寺住職の静照さんの日記にも書かれちゅうちゅうがやき。
また、「大仏踊り」っちゅうんも流行って、ガンガン踊られよったっちゅうがよ。
さらに、料理屋じゃあ、赤い前掛けの女性がお酌をしてくれたり、東灘から女形役者を雇うて女装さいて給仕させる店が大当たりやったっちゅうがやき。
また、川原に小舟を引き上げた「貸座敷」も多かったっちゅうがよ。
続いて、土佐における二大遊興地、稲荷新地と玉水新地についてのお話があったがやき。
稲荷新地は、明治元年に筒井某っちゅう人物が「丸カ楼」っちゅう料理屋を開業したがが始まりで、続いて「丸多」「高知屋」「百萬石」「金波楼」らあができ、土佐藩家老やった深尾丹波さんが「丹波楼」を始めて賑おうたっちゅう話もあるっちゅうがよ。
下の新地、稲荷新地に対応するように上の新地である玉水新地ができたがも明治初年で、「陽暉楼」は明治3年に玉水新地にできて、明治11年に谷干城によって「得月楼」と命名されたっちゅうがやき。
その後「得月楼」は、下の新地に本店を移して、「南海第一楼」としてその名を轟かせたっちゅうがよ。
ちなみに、玉水新地は軍人さん、稲荷新地は庶民がお客の中心やったっちゅうがやき。
また、今も鏡川河口にある無人島の丸山台は、板垣退助ゆかりの地としても有名やけんど、かつてはその手前まで路面電車が走っちょったばあ流行っちょって、鈴を鳴らしたら舟が向かえに来てくれたっちゅうがよ。
また、稲荷新地の稲荷といやあおキツネさんやに、こちらの大膳神社は、おタヌキさんを祀っちゅうっちゅうがやき。
「タヌキ」やき他に抜きん出るっちゅう意味で、新地の女将さんらあがこぞって詣でたっちゅうがよ。
また、得月楼からは屋形船らあも出ちょって、昭和の初め頃にゃあ須崎にも支店があり、大繁盛やったっちゅうがやき。
高知城の下にも花月亭らあのお店があったっちゅうがよ。
次に、得月楼で全国市会議長晩餐会が開催された際の資料があるっちゅうがやき。
そこにゃあ、出された料理のメニュー以外にも、余興に常磐津や土佐音頭らあが披露されたっちゅうて書かれちゅうがよ。
また、余談やけんどっちゅうことで、「月刊土佐」っちゅう1985年頃の本に、「遊廓・玉水町今昔」っちゅう特集があるっちゅうがやき。
その頃の玉水町の七夕祭りの写真らあがあり、こぢゃんと派手に開催されよったらしいがよ。
また、昔の高知の検番のパンフレットを見せてもうたがやけんど、当時の芸妓さんらあの写真がズラリ写っちょったがやき。
さらに、昭和12年の南国土佐大博覧会の映像も流され、こぢゃんと興味深かったがよ。
浦戸湾名物の帆傘船の映像や、さらに得月楼の芸妓さんが何百人も練り歩く映像らあも流され、ちくとビックリやったがやき。
次に、「よさこい節」のルーツについてのお話ながよ。
実は、江戸時代に万歳や曲芸や踊りらあの様々な大道芸を行うて金銭を乞うた「乞胸(ごうむね)」っちゅう人々がおって、彼らの歌の中に「花のお江戸の〜〜〜よさこい、よさこい」っちゅう歌があるっちゅうがやき。
この「乞胸」の下品な歌が、実は「よさこい節」のルーツやっちゅうんは、ワシも初めて知った話やって、まっこと面白かったがよ。
さらに、現代は土佐のお座敷遊びの「可杯(べくはい)」の時に歌われゆう「ベロベロの神様の歌」やけんど、これのルーツについちゃあ中原中也が1971年に広島の童歌として「ペロペロの神様」っちゅう歌があるっちゅうて、紹介しちゅうっちゅうがやき。
今は飲兵衛県の土佐の高知で酔っぱらいの神様として知られちゅう「ベロベロの神様」が、実はそのルーツは童歌の「ペロペロの神様」やったっちゅうんは、なかなか衝撃の事実やったがよ。
だいたいこんな感じのお話で、19時にゃあ拍手喝采となり、吉澤社長さんの講演は終了したがやき。
吉澤社長、まっこと知らんことだらけの興味深い講演を、ありがとうございましたぜよ!
その後は、残念ながら吉澤社長さんを含む多くの方々が帰られ、委員長と副委員長と書記の8名ばあのメンバーだっけが残って、しかもソーシャルディスタンスでのミニ忘年会やったがよ。
まずはビールが注がれ、吉本副委員長さんの発声にて乾杯し、宴席のスタートながやき。
鰹のタタキ、土佐田舎寿司、一人鍋らあが出され、みんなあで飲んで食べて語り合うて、ちくとおとなしゅうに、それなりに盛り上がったがよ。
揚げ物盛り合わせが取り分けられ、このあたりで「船中八策」(超辛口・純米酒)が出され、あらためてみんなあで乾杯したがやき。
たとえソーシャルディスタンスやったち、共にこの1年活動してきた仲間やき、そこに土佐酒が加わりゃあ、盛り上がるこたぁ間違いなしながよ。
飲んで食べて語り合うて、飲んで食べて語り合うて、文治郎さんの講演ネタや昔バナシらあで大いに盛り上がったがやき。
途中で、由喜千代さんの舞いの披露もあり、そっから後はさらに一層盛り上がりまくったがよ。
「濱長」さん、そして土佐経済同友会人づくり委員会の皆さん、今年もまっことお世話になりました!ありがとうございましたぜよ!
土佐の高知の日本酒蔵元「司牡丹」の公式ホームページは、こちらをクリック!
司牡丹酒造株式会社