いやあ、こればあ目からウロコが落ちまくり、知的興奮を覚えた書籍を読んだがは、何十年ぶりのことやろうか?
現代社会の盲点が見事に炙り出され、「意志」とは?「責任」とは?の本当の意味に気づかされ、さらにコロナ禍において噴出しゆう様々な問題らあを解きほぐすヒントらあも、随所に散りばめられちゅうがやないかと感じた、稀有な書籍ながよ。
また、このあたりは明日の「後編」になるけんど、酒類業界におるもんにとっちゃあ今後は避けて通れんであろう「アルコール依存症」の問題、その回復へのヒントも示されちょって、「味わうこと」が持っちゅうアッと驚くような凄い力らあについても示されちゅうがやき。
その書籍たぁ、「〈責任〉の生成〜中動態と当事者研究〜」(國分功一郎 熊谷晋一郎 著 新曜社 2020年12月1日発行 2000円+税)っちゅう書籍ながよ。
400ページを超える分厚い本で、おまけにワシがこれまでほとんど手をつけたことがない分野、哲学者と障害当事者研究の第一人者の対談本であり、当然のように耳慣れん哲学用語らあが頻繁に登場し、決してすんなり読めるようなもんやないがやけんど、あまりに目からウロコの連続で、ワシゃあいきなりその知的な面白さにハマってしもうて、2回も精読してしもうたがやき。
ちなみに、何でワシがこれまで手をつけたことがほとんどないような分野のこの書籍に興味を持ったかっちゅうたら、新聞の書評やったがよ。
ワシゃあもともと読書が趣味みたいなもんやき、これまでに新聞の書評らあを読んで購入した書物から、抱えちゅう課題やビジネスや会社経営らあのヒントを、こぢゃんといただいてきちゅうがやき。
ほんじゃき、今抱えちゅう問題らあについてのアンテナがピンと立っちょって、そのアンテナがピピッと反応したもんやき、これまで手をつけたことがほとんどないような分野の書籍に、思わず手を伸ばしてしもうたがよ。
さて、内容やけんど、まず「まえがき」にて著者の國分さんが、「責任」の意味をちくと解きほぐしてくださっちゅうがやき。
責任(レスポンシビリティ)は応答(レスポンス)と結びついちゅうけんど、応答たぁ何かっちゅうたら、その人が自分に向けられた行為や自分が向かい合うた出来事に、自分なりの仕方で応ずることながよ。
決まり切った自動的な返事しかできてないやったら、その返事は応答やのうて反応になってしまうがやき。
哲学者ハンナ・アレントはそれぞれの人間が自分なりの仕方で応答する可能性を人間の「複数性」と呼び、それを人間の条件の一つに数えたっちゅうがよ。
自分に向けられた行為や自分が向かい合うた出来事にうまいこと応答できんとき、人は苦しさを感じ、それが常態化すりゃあ苦しさは堪え難いもんになるっちゅうがやき。
何でかゆうたら、うまいこと応答できんまんまでおるこたぁ、人間の複数性にうまいこと参加できてないことを意味するきながよ。
複数性に参加できてないとき、その人は相手にされんなるがやき。
相手にされんたぁ、周囲のもんらあから、応答するべき相手と見なされんっちゅうこと、自分らあに似通うた、同等のもんと見なされんっちゅうことながよ。
そんときそこに現れちゅうがは、応答のない、ただの反応に満たされた空間・・・自分以外の他なるもんが自分のために責任を果たしてくれることも、自分が自分以外の他なるもんに責任を果たすこともない、そんな世界ながやき。
「責任」はしばしば重苦しゅうて、できりゃあ避けたい義務っちゅう語感を持っちゅうけんど、責任が消失した空間を想像してみりゃあ、そりゃあ何とつろうて苦しいもんやろか!
人が周囲から反応だけやのうて応答を受け取りゆうとき、そこにゃあ日常と呼ばれる光景があるがよ。
人が日常を実感するがは、おそらく、周囲から反応だけやのうて応答を受け取りゆうときながやき。
けんど応答し応答されるっちゅう事態は、ちびっとも当然視できるもんやないがよ。
応答しゆうに応答しゆうと見なされん人もおるろうし、応答の手段を著しゅう制限されちゅう人もおるろう。
その意味で、日常は決して当たり前に存在しちゅうもんやない、そりゃあ何らかの仕方で獲得されにゃあならんっちゅうがやき。
ほんで、著者の國分さんはこう語るがよ。
「日常は生きることの出発点やあない。そりゃあ生き延びた先にある。」
さらに國分さんは続けるがやき。
「ワシらあは今、日常が破壊される時代を生きちゅうがやないろうか。確かに複数の個体が集まって生きちゃあいるもんの、複数性に参加しちゅうと感じることが難しゅうなっちゅう、そんな時代を生きちゅうがやないろうか。」
ほんで、本書の議論はこの時代そのものに向けられちゅうっちゅうがよ。
この「まえがき」の言葉だっけで、ある意味ワシゃあグッと掴まれてしもうたがやき。
ほいたら本編の前に著者のご紹介やけんど、この書籍は、東京大学大学院総合文化研究科准教授で哲学の専門家(学術博士)である國分功一郎さんと、東京大学先端科学技術研究センター准教授・小児科医で、「当事者研究」の専門家(ご本人も新生児仮死の後遺症で脳性麻痺となり車イス生活)である熊谷晋一郎さんとの対談をもとに、大幅加筆修正し、再構成した書籍ながよ。
お二人の対談は、まずサブタイトルにもある「当事者研究」たぁどんなもんかについてが、語られちゅうがやき。
まず、障害をもつ当事者の置かれた状況についてが熊谷さんから語られちょって、1970年代は、たとえば階段を上れん足に問題があるんやっちゅう考え方で、こうした古い考え方のことを障害の「医学モデル」っちゅうらしいがよ。
これに対して80年代からは、むしろ階段だっけでエレベーターがない社会環境の側に問題があると考えるようになり、こちらは障害の「社会モデル」っちゅうらしいがやき。
この「社会モデル」っちゅう考え方に出会うて、熊谷さんは何とか自分の人生を暮らしていけるっちゅう希望をもつことができたっちゅうがよ。
そんななかで2001年、北海道浦河町の「浦河ぺてるの家」の、おもに統合失調症っちゅう精神障害を抱える当事者らあによって生み出されたがが「当事者研究」で、その後は精神障害だけやのうて、比較的周囲に見えにくい困難をもっちゅう人らあの間で急速に広がってきたっちゅうがやき。
熊谷さんのように車イスに乗っちゅう障害者は、周囲に見えやすい困難をもっちゅうけんど、精神障害とか自閉スペクトラム症らあの発達障害らあは、外から見たちマジョリティとの差異が明確にわからんっちゅうがよ。
そういう方々の場合、社会モデルっちゅうたち、社会環境のどこをどう変えりゃあ生きやすうなるがかわからんっちゅう問題があるっちゅうがやき。
さらに重要な点は、周囲から見てわかりづらい障害は、自分から見てもわかりづらいっちゅうがよ。
自分に問題があるがやないかとか、努力不足のせいやないかとか、自分を責めてきた方が数多いっちゅうがやき。
そういう状況に置かれた当事者らあが、社会を「変える」手前で、類似した経験をもつ仲間と共に、自分らあは何者ながかについて、まずそれを「知る」ことを目指す。「変える」に先立つ「知る」を志向した活動が、当事者研究やっちゅうがよ。
ほんで、「ぺてるの家」が先進的やったがは、症状を「消すべき」っちゅう発想を変え、「症状にゃあ、自分助けとしての意味がある。ほいたら、どのような苦労に対する自分助けながやろう。それを研究してみろう。」っちゅう問いを立て直したことやっちゅうがやき。
ほんで、その具体的な方法に関して、いくつかポイントのようなもんがあるっちゅうがよ。
まず、「誰のせい?」っちゅうような犯人探しをして解決しょうとするがやのうて、自然現象のメカニズムを探る態度で向き合うっちゅうがやき。
この態度のことを、「外在化」っちゅうがよ。
問題行動(放火、破壊行動等々)と本人をくっつけんと、問題と本人を切り離して、行動を自然現象のように眺め、みんなあでワイワイとそのメカニズムを探っていくっちゅうがやき。
もう一つ重要な方法論的態度は、「仲間の力」を重視することやっちゅうがよ。
他者の視点を通してはじめて、出来事を人ごとのように観察できるようになる場合が多いっちゅうがやき。
ほんで、不思議なことに、一度問題行動らあの行為を外在化し、自然現象のように捉える、すなわち「免責」すりゃあ、外在化された現象のメカニズムが次第に解明され、その結果、自分のしたことの責任を引き受けられるようになってくるっちゅうがよ。
まっこと不思議やけんど、一度「免責」することによって、最終的にきちんと「引責」できるようになるっちゅうがやき。
次に、「中動態」たぁ何かっちゅうたら、國分さんは、英文法で習うた「能動態」「受動態」の兄弟みたいなもんやっちゅうがよ。
実は、能動と受動の区別っちゅうんは言語の歴史のなかじゃあ比較的新しいもんで、かつては能動態と受動態の対立は存在してのうて、その代わりに能動態と中動態が対立しちょって、受動は中動態が担うちゅう意味の一つに過ぎんかったっちゅうがやき。
ワシらあは今、能動態と受動態、つまり「する」と「される」の対立で何じゃち説明できると思うちゅうけんど、よう考えりゃあこの対立はきわめて使い勝手が悪うて、実はいろんなことが説明できんっちゅうがよ。
これが、能動態と中動態の対立じゃあどうやったかっちゅうたら、次の通りやったっちゅうがやき。
「能動じゃあ、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示しちゅう。これに対立せる態である中動じゃあ、動詞は主語がその座となるような過程を表しちゅう。つまり、主語は過程の内部にある。」
ひとことで言うたら、能動態と中動態の対立においちゃあ、「する」か「される」かやのうて、「外」か「内」かが問題になっちゅうっちゅうがよ。
主語が動詞によって名指される過程の内部にあるときにゃあ中動態が用いられ、その過程が主語の外で終わるときにゃあ能動態が用いられたっちゅうことながやき。
例えば、何かを「曲げる」とか、何かを「与える」っちゅうんは能動態ながよ。
なんでかっちゅうたら、作用が主語の外で完結しちゅうきながやき。
それに対して、「惚れる」「欲する」らあは中動態ながよ。
これらあの場合、私っちゅう主語は、動詞によって名指されるプロセスの場所になっちゅうきながやき。
現在の言葉じゃあ、「惚れる」は能動態として表されるけんど、「ワシゃあ惚れた」は果たして能動ながやろか?
たしかにワシがその人に惚れたがやけんど、その人に魅了されちゅうがやき、惚れてしまうがはどう考えたち受動ながやけんど、単に受け身なだけやあないがよ。
ワシゃあ自分で誰かに惚れようとするわけやあない。けんど誰かに惚れることを強制されちゅうわけでもない。
惚れることがワシを場所として起こっちゅうっちゅうわけながやき。
現在の言葉じゃあそのことはうまいこと表現できいで、それによってその意味するところが歪められてしまうっちゅうがよ。
主語が過程の場所になっちゅうことを示す中動態やったら、これを見事に表現できるっちゅうがやき。
ほんで、このような能動態と中動態っちゅう対立から、能動態と受動態っちゅう対立への変化はいったい何を意味しちゅうかっちゅう問いに、十分に答えるがは困難やけんど、國分さんは、この変化が「意志」の概念の台頭と平行しちゅうがやないかっちゅうがよ。
能動と受動の対立は意志の存在をクローズアップするように思われ、実際、意志の概念は古代ギリシアにゃあ存在せん、比較的新しい概念やっちゅうがやき。
能動と受動を対立させる言語は、行為における意志を問題にするようになったがやないかっちゅうがよ。
そうすりゃあ同じ現象やったち、自分の意志でやったがか、誰かに強制されたがかを、区別せにゃあならんがやき。
「自分の意志でやったがか?そうやないがか?」っちゅうて強う尋ねてくるこの言語を、「尋問する言語」と國分さんは呼びゆうっちゅうがよ。
中動態が消滅した後に現れたがは、そのような言語やったがやないかっちゅうがやき。
ほいたら、「意志」っちゅう概念はどうやって誕生したがか?
ギリシアは実はこぢゃんとアジア的で、その文明の根底にあるがは循環する時間と自然っちゅう考え方で、それに対してキリスト教は直線的な時間感覚を生み出した、始まりと終わりがある時間っちゅう考え方を生み出したっちゅうがよ。
自分の意志で行為するっちゅうことは、その行為の出発点が自分にあることを意味し、意志を行為の出発点と見なすたぁ、その意志がピュアな源泉と見なされちゅうことを意味するがやき。
つまり、意志に先行する原因は存在せんと、何もないところに意志がむっくりと現れて行為を生み出したっちゅうことながよ。
けんど、実際にゃあ人間の精神のなかにそのような無からの創造らああり得るはずがないがやき。
行為へと至る因果関係は複雑に絡み合うちゅうと同時に、そりゃあなんぼでも遡っていけるがよ。
にも関わらんと、意志を無からの創造、行為のピュアな源泉と考えちゅうとしたら、ワシらあはそのとき、単に因果関係を見んようにしちゅうだけか、あるいはその因果関係を無理矢理にどっかで切断しちゅうかやっちゅうがやき。
さらにそりゃあ、本来切断できんもんを切断しちゅうっちゅうがよ。
ほいたら何でそんな無理なことを日常的に行いゆうがかっちゅうたら、ここに「責任」の概念が絡んでくるっちゅうがやき。
ここで國分さんは、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの言葉を紹介しちゅうがよ。
「意志は、西洋文化においちゃあ、諸々の行為や所有しちゅう技術をある主体に所属させるがを可能にしちゅう装置ながぜよ。」
意志の概念によって行為をある主体に所属させることができるようになる、つまり、その行為をその人の持ちもんや私有財産にすることができるっちゅうことながやき。
なんでそんなことが必要ながかっちゅうたら、そりゃあ責任を考えるためやっちゅうがよ。
ある行為がワシのもんやったら、その行為の責任はワシにあることになるがやき。
そうやなけりゃあ、そりゃあワシの責任やのうなるがよ。
このようにして行為を所有物とする考えの根拠とされるがが、「意志」の概念であるっちゅうがやき。
さらに國分さんは、ホンマは「意志」と「選択」は分けて考えにゃあいかんっちゅうがよ。
あらゆる行為は選択と見なすことができるけんど、行為すなわち選択は、意志の有無たぁ関係ないっちゅうがやき。
ただそのような行為、すなわち選択がなされゆうだけやっちゅう場面が実際にゃあこぢゃんと多いっちゅうがよ。
ところが、責任を問われにゃあならん場面になりゃあ、突然意志っちゅう概念が現れてきて、その行為すなわち選択に飛びつくがやき。
ワシらあは不断に選択しよって、何をするがもすべて選択ながよ。
それに対し意志っちゅうんは、後からやってきて、そこに付与されるもんやっちゅうがやき。
付与された後で、その選択が私的な所有物にされる。そうして責任が発生するっちゅうがよ。
けんど、こりゃあどっかおかしいがやないかと國分さんは考えちゅうっちゅうがやき。
「まえがき」に示されちょった通り、責任は応答と結びついちゅうがよ。
けんど、ワシらあの知る意志の概念によってもたらされる責任はどこっちゃあに応答の契機がないっちゅうがやき。
そもそも責任っちゅうんは、論語の「義を見てせざるは勇無きなり」の「義の心」のことで、自分が応答するべきである何かに出会うたとき、人は責任感を感じ応答する・・・これがそもそもの責任っちゅう言葉の意味やないがかと、國分さんは喝破するがよ。
ほいたら、こう考えられるっちゅうがやき。
意志の概念を使うてもたらされる責任っちゅうんは、実は堕落した責任やっちゅうがよ!
ホンマはこの人がこの事態に応答するべきやけんど、応答するべき本人が応答せん。そこで仕方のう、意志の概念を使うて、その当人に責任を押しつける。そうやって押しつけられた責任だっけを、ワシらあは責任と呼びゆうがやっちゅうがやき。
中動態じゃあ責任を取らいでもえいがですねっちゅう誤解がようあるけんど、決してそうやないっちゅうことながよ。
さて、ちくと長うなってしもうたけんど、まだまだ先がありますきに、今回はここまでとさいてもうて、この続きは次回「後編」に譲らいていただきますぜよ。
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