「痛みを共有することができんっちゅう絶望的なばあの孤独をかかえてワシらあの生はあるがよ。ほいたら、その孤独にうちのめされもっても、なお他の痛みを共有しょうとする不可能性にこそ、ワシゃあ愛の射程を見いだすがぜよ。」(辺見庸)
元共同通信記者の、作家・ジャーナリスト・詩人で、1991年「自動起床装置」で第105回芥川賞を受賞した、辺見庸(1944〜)さんの言の葉ながやき。
人は、本当の意味で、他人の痛みを共有することらあできんがよ。
そりゃあつまり、人間っちゅうんは究極的にゃあ、絶望的なばあの孤独をかかえて生きていかにゃあいかんっちゅうことを意味しちゅうがやき。
だとすりゃあ、人間っちゅうんは、何ちゅう淋しい生き物ながやろうか。
けんど、そんな淋しい生き物やからこそ、究極的にゃあ孤独やからこそ、その孤独にうちのめされながらも、それでもなお、絶対に不可能やと分かっちょってもなお、他人の痛みを共有しょうとするっちゅうそんな行為こそが、愛の射程距離を拡げることにつながるっちゅうことながよ。
だとすりゃあ、人間っちゅうんは、何ちゅう素晴らしい生き物ながやろうか!