「希望は全てを貫き、死ぬるおりまでもワシらあを見捨てんぜよ。」(アレキサンダー・ポープ)
その名文句がシェイクスピアに次いで引用されゆうとまで言われる、イギリスの詩人、アレキサンダー・ポープ(1688〜1744)さんの言の葉ながやき。
ポープさんにゃあ、「希望は人間の心に永遠に湧くもんじゃ。」っちゅう言の葉もあるきに、「希望は全てを貫き」の部分は、そういう意味やと分かるがよ。
つまり、齢100歳を超えようが、こぢゃんと苛酷な状況に陥ろうが、心に希望は湧いてくるもんやっちゅうことながやき。
ほいたら、どういて希望を持てん人がおるがか?
そりゃあ、その湧いてくる希望を、自ら掬い上げることができるかどうかは、人それぞれに任されちゅうきながよ。
常に自ら掬い上げることができる人は常に希望を失わん人になり、掬い上げることをやめた人は希望を失うてしまうっちゅうことながやき。
希望それ自体はどんな時やち永遠に湧いてくるもんやけんど、人間がそれを掬い上げることをやめたりするき、希望を持てんっちゅう状態が起こるっちゅうことながよ。
ここまでやったら、何とのう分かるろうけんど、次の「死ぬるおりまでもワシらあを見捨てん」っちゅうんは、さすがにそりゃあ言い過ぎやないかよと感じる方が少のうないがやないろうか。
ワシも当初は、ちくと言い過ぎやと思うちょったがやき。
けんど、じっくり考え抜いてみたがよ。
死ぬる寸前においてやち希望を持てるとしたなら、一体そりゃあどんな希望ながやろうか?
ワシの出した答は、こうながやき。
その希望たぁ、「希望を託す」っちゅうことながやないろうか。
たとえ自分は、志半ばにして死んでしもうたとしたち、そんな自分の目指した夢を、自分の後に続く仲間や後輩や子孫らあが、きっとその夢を達成してくれるはずやと心から信じて、託すっちゅうことながよ。
そんな想いを抱いて死に臨むことができたとしたら、確かに希望は、死ぬるおりまでやちワシらあを見捨てんっちゅうことになるがぜよ。