今回もまた、「哲学」関係のお薦め書籍のご紹介ながやき。
「世界は贈与でできている〜資本主義の『すきま』を埋める倫理学〜」(近内悠太 著 News Picks Publishing 2020年3月13日発行 1,800円+税)っちゅう書籍で、オビにも書かれちゅう通り、糸井重里氏や茂木健一郎氏や山口周氏らあが絶賛しちゅうっちゅうに、何と本書が著者のデビュー作やっちゅうがやき、まっことビックリ仰天ながよ。
著者の近内悠太氏が、最有望の哲学者やと語られゆう所以(ゆえん)やっちゅうことながやき。
ほいたら、本書の内容やけんど、哲学書でありながら、SF小説や漫画らあについても解説されちゅうっちゅうんが、まっこと新しいがよ。
今から46年前の昭和50(1975)年に出版された、小松左京さんのSF小説「復活の日」(角川文庫)にゃあ、次のような描写があるっちゅうがやき。
「たった2ヶ月前までは人であふれていた、平日の通勤ラッシュ時の電車や駅のホームに、人がまばらになった。」
「たかがインフルエンザじゃないか・・・そのたかががどこか心の奥底の方で、まさかにかわりつつあった。」
「巨人-広島第十回戦、両軍選手多数インフルエンザのため、ついにお流れ。」
「映画製作中止続出、大スターの急死の痛手、急場の埋め合わせ間に合わず。」
「復活の日」は、軍事用に開発されたウイルスの蔓延により、南極大陸に残る人間を残して、地球上すべての人類が死に至るさまを描いた物語ながやけんど、まるでコロナ禍を予言したかのようでゾッとするがよ。
ほんで、「復活の日」の後半部に、大学で文明史を教えるスミルノフ教授っちゅう人物が登場するがやき。
彼が最期の力を振り絞り、もはやほぼすべての人類が滅亡した世界に向けて、ラジオを通して最後のレクチャーを発信する長いシーンがあるがよ。
地球上に、もはや誰も自分のラジオ講義を聞いてくれる人がおらんことを分かっちょりながら、それでも語らずにゃあおれん。
自身もすでにウイルスに罹患し、放送の途中で意識を失いかけもって、そして心臓の発作に襲われもっても語り続けるがやき。
なんでスミルノフ教授は、誰っちゃあ聞く人がおらんなった世界に向こうて言葉を発し続けるがか。
そりゃあ「学者の責任」「哲学者の責任」やからやっちゅうがよ。
どういう責任かっちゅうたら、人間もまた生物にすぎんっちゅう、人間の真の姿とその意味を学者は知っちょって、それを人々に伝えるっちゅう責任ながやき。
ほんで、自分はそれを知っちょったにもかかわらんと、その責任を果たしてこんかった。その強い後悔の念が、彼を突き動かしゆうがよ。
ほんで、この災厄の責任は、科学者やのうて、哲学者にあったと断じるがやき。
そして今、コロナ禍において、世界中の哲学者らあが続々と発言しよって、書店にも哲学関係の書籍がズラリと並んじゅうがよ。
そりゃあ「哲学者の責任」として、人間の真の姿とその意味を、ワシらあに伝えようとしゆうかのようながやき。
「復活の日」じゃあ、誰っちゃあ聞くことができんかったスミルノフ教授の魂の言葉を、世界の叡智の言葉を、ワシらあは今、聞くことができるっちゅうことながぜよ!
続いては、ワシがこぢゃんと感動した、「アンサング・ヒーローが支える日常」っちゅうパートを、ちくと詳しゅう紹介さいていただきます。
まず、透明な半円形の器が2つあると想像していただきたいがよ。
1つは上向きに置かれ、中に丸いボールが入っちゅうがやき。
もう1つは伏せて置かれ、頂上に丸いボールが乗っちゅうがよ。
器は透明やき目にゃあ見えんき、どちらのボールも静止しちゅうように見えるがやき。
こりゃあ、物理学的にゃあ「つり合い」っちゅう状態やけんど、前者のボールは「安定つり合い」、後者のボールは「不安定つり合い」っちゅうて、両者は全く違う状態ながよ。
ボールが静止しちゅう限り差異はないがやき。
劇的な変化は、外的要因によって力を受け、ボールの位置が変化したときに生じるがよ。
そりゃあ復元力の有無によって決定されるがやき。
「安定つり合い」のボールは、変位が生じたち復元力によって勝手に元の位置に戻ってくるがよ。
それに対し「不安定つり合い」のボールは、均衡が破れりゃあ二度と元の位置に戻ってくるこたぁないがやき。
もし、元の位置に戻したけりゃあ、ボール、曲面、重力っちゅう閉じた系の外から力を加えにゃあならんがよ。
ほんで著者は、このような「安定つり合い/不安定つり合い」は、ワシらあの日常、あるいは取り巻く世界、つまり文明のメタファー(隠喩:あからさまな比喩表現を使わんたとえ)やっちゅうて語るがやき。
どちらのボールも今は静止しちゅうがよ。
そりゃあ、昨日と同じような今日がやってくるっちゅうことを表しちゅうがやき。
停電が起きたちすぐ復旧し、電車がストップしたちそのうち運転再開となるがよ。
コンビニの品薄状態も一時的で、配送トラックが来りゃあ商品は滞りなく補充されるがやき。
ほんじゃきワシらあはつい、このボール(=社会)がくぼみに置かれた「安定つり合い」やと思い込んでしまうがよ。
つまり、復元力が働きゆうがゆえに、少々の社会的混乱も自然に収まると思い込んじゅうがやき。
けんど、ここにゃあ問題があると、著者は指摘するがよ。
この世界が「安定つり合い」やと思うちゅう人は、少のうたち「感謝」っちゅう重要な感情を失うがじゃっちゅうがやき。
なんでかっちゅうたら、彼らの目にゃあ、「電車の遅延」も「コンビニの欠品」も、ボールを安定点から意図的にずらした奴がおる、と映るきで、彼らはそれに苛立ってしまうがじゃっちゅうがよ。
けんど、この世界は、安定たぁ真逆の、「丘の上に偶然置かれたボール」のような状態ながやないろうか?
ギリギリの均衡を保ち、かろうじて昨日と同じような今日がやってくるっちゅうことながやき。
ほんで、もしそうやったら、どこまでやち落ちていこうとするがを何とか止めて、元の位置に戻そうとする外力が存在しちゅうはずながよ。
ほんで、そのような外力の存在は、外力っちゅう支えを失うて、奈落の底まで落ちていく光景を目にして初めて「そこにゃあ転落を止めようとする力が働きよった」と気づくことができるがやき。
ほんで著者は、「アンサング・ヒーロー」っちゅう概念を提示するがよ。
「ひとりの村人が道を歩きよったら、堤防にチンマイ『蟻の穴』を見つけた。何気のう小石をそこに詰め込んで穴を塞いだ。その『蟻の穴』は、放置しちょいたら次の大雨のときそっから堤防が決壊して、村を濁流に流すはずの穴やった。けんど、穴が塞がれたせいで、堤防は決壊せんと、村にゃあ何事も起きんかった。この場合、穴を塞いだ人の功績は誰っちゃあに知られることがない。本人も自分が村を救うたことを知らん。」(「街場の憂国論」 内田樹 著 晶文社 2013年10月5日発行 1,700円+税)
その功績が顕彰されん陰の功労者、歌われざる英雄がアンサング・ヒーロー(unsung hero)ながやき。
つまり、評価されることも褒められることものうて、人知れんと社会の災厄を取り除く人っちゅうことながよ。
この世界にゃあ無数のアンサング・ヒーローがおった。
ワシらあはあるとき、その事実に気づくがやき。
その気づきは、この文明が「丘の上に置かれた不安定なボール」やと気づくがと同時に訪れるがよ。
ほんじゃきアンサング・ヒーローは、想像力を持つ人にしか見えんと、著者は語るがやき。
アンサング・ヒーローは、その定義上、ワシらあに分かる形じゃあ名乗っちゃあくれんがよ。
しかも、「その活躍が災厄を未然に防いだ」っちゅう事実によってのみ、その存在が同定されるような存在者ながやき。
ほんじゃき「この世界にゃあ災禍が間違いのう起こっちょったはずやのに、なんでか知らんけんど、それが防がれた」。
だとすりゃあ、「それを防いだ人あるいは防ぎ続けゆう人がおるはずや」っちゅうふうに、想像できる人だっけがその存在を把握することができるがよ。
ほんで、アンサング・ヒーローになるにゃあ、このプロセスを経るしかないと、著者は語るがやき。
なんでかっちゅうたら、まずアンサング・ヒーローにゃあインセンティブつまり報酬が渡されんきながよ。
誰っちゃあに知られることのう未然に災厄を防いでしまうきながやき。
また、ある人がアンサング・ヒーローにならいじゃち、誰っちゃあ彼を責めんがよ。
なんでかゆうたら、アンサング・ヒーローが行う贈与はもともと誰の責任でもない仕事やからながやき。
防がんかったとしても誰の責任にもならんけんど、自分がやらにゃあいかんと感じる人のことをアンサング・ヒーローと呼ぶがよ。
ほんで、ここが重要やと著者は語るがやき。
アンサング・ヒーローは自分が差し出す贈与が気づかれいじゃち構わんと思うことができる。
それどころか、気づかれんまんまであってほしいとさえ思うちゅう。
なんでかっちゅうたら、受取人がそれが贈与やと気づかんっちゅうことは、社会が平和であることの何よりの証拠やきながよ。
自身の贈与によって災厄を未然に防げたきにこそ、受取人がそれに気づかんがやき。
ほんじゃき、ワシらあが気づいてないだっけで、この社会にゃあ無数のアンサング・ヒーローが存在しちゅうがよ。
その純然たる事実に気づいた人だっけが、その前任のアンサング・ヒーローから贈与のプレヒストリーを与えられ、自身が再びアンサング・ヒーローの使命を果たしていくがぜよ。
ほんで著者は、本書のラストで次のように語るがやき。
なんでワシらあは「仕事のやりがい」を見失うたり、「生きる意味」を自問したりしてしまうがか。
それが「交換」に根差したもんやきながよ。
ギブ&テイク、ウィン-ウィン。残念ながら、そん中から「仕事のやりがい」「生きる意味」は出てこんっちゅうがやき。
これらあは、贈与の宛先から逆向きに返ってくるもんやきながよ。
それが、アンサング・ヒーローとなり、贈与の宛先から逆向きに仕事のやりがいと生きる意味を与えられるための道やっちゅうがやき。
ただし、ここじゃあ注意が必要やっちゅうがよ。
「仕事のやりがいと生きる意味を与えてもらいたいきに贈与する」っちゅうんは矛盾やっちゅうがやき。
完全なる矛盾であり、どうしょうもない自己欺瞞やっちゅうがよ。
そんなモチベーションじゃあ、やりがいも生きる意味も与えられんっちゅうがやき。
不当に受け取ってしもうた。ほんじゃき、このパスを次につなげにゃあならん。あくまでも、その自覚から始まる贈与の結果として、宛先から逆向きに「仕事のやりがい」や「生きる意味」が、偶然返ってくるっちゅうことながよ。
「仕事のやりがい」と「生きる意味」の獲得は、目的やのうて結果ながやき。
目的はあくまでもパスをつなぐ使命を果たすことながよ。
ほんじゃき著者は差出人から始まる贈与やのうて、受取人の想像力から始まる贈与を基礎に置いたがやき。
ほんで、そこからしか贈与は始まらん。
そのような贈与によって、ワシらあはこの世界の「すきま」を埋めていくがよ。
この地道な作業を通して、ワシらあは健全な資本主義、手触りの温かい資本主義を生きることができるがやと、著者は締め括るがやき。
さて最後に、ワシなりにまとめてみりゃあ、以下のとおりになるがよ。
このコロナ禍において、世界中の哲学者らあが危機感を持って様々な発言をしゆうき、今ワシらあは世界の叡智の言葉を聞くことができるっちゅう、ある意味恵まれた環境におるといえるがやき。
本書もまさに、そんな中のお薦めの1冊やっちゅうことながよ。
ほんで、コロナ禍中にて、この文明が「丘の上に置かれた不安定なボール」やったがやと気づき、想像力により実はこれまでたくさんのアンサング・ヒーローに支えられちょったがやと気づき、それらあに感謝することができりゃあ、誰やちアンサング・ヒーローになり得るっちゅうことながやき。
街のちんまい酒屋さんやち、酒の楽しさや豊かさを伝えることで、誰かに生きる希望を与えて、災厄を未然に防いじゅうかもしれんがよ。
そして、アンサング・ヒーローの使命に覚醒し、その覚悟を決めて歩みだいたとき初めて、「仕事のやりがい」や「生きる意味」が、贈与の宛先から逆向きに返ってくるっちゅうことながぜよ。
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