「山ありゃあ山を観る 雨の日にゃあ雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろしぜよ」(種田山頭火)
全国各地を放浪しもって、数多くの自由律俳句を詠んだ漂泊の俳人、種田山頭火(1882〜1940)さんの言の葉ながやき。
そこに山がありゃあ、山を観りゃあえいし、雨が降りゃあ雨の音を聴きゃあえいがよ。
つまり、春夏秋冬どんな季節やち、朝やろうが夜やろうが、すべてがそのまんま、あるがまんまで「よろし」っちゅうことながやき。
誰の人生にやち、山もありゃあ谷もあり、晴れのときもありゃあ土砂降りの雨のときもあるがよ。
若々しい青春のときもありゃあ、眩い光に満ちた盛夏のときもありゃあ、大人から老人へ移り変わる思秋期のときもありゃあ、人生の終盤である冬のときも、誰にやちおとずれるもんながやき。
そりゃあ間違いのう、全人類におとずれることであり、誰っちゃあ避けて通るこたぁ不可能ながよ。
ほいたらワシらあにゃあ、それらあのすべてを、えいことも悪いことも、一喜一憂することのう、あるがまんまをそのまんま、すべてを「よろし」っちゅうて、自身の責任として受け取る覚悟が必要やっちゅうことながやき。
そんな覚悟をハッキリと定めた瞬間、人生で起こることすべてに深い意味があり、すべては導かれゆうがやっちゅう想いが、そして人生を生ききる勇気が、沸々と湧いてくるがぜよ!