2023年01月25日

酒道 黒金流・門前編】新作!「人は皮膚から癒される!」ぜよ!

今回は、ワシが創始して立ち上げさいてもうた、日本酒を媒介とした「もうひとつの道」、「酒道 黒金流」ホームページ(https://shudo-kurogane.jp )の「門前編 其の弐」に、新しいコンテンツとして「人は皮膚から癒される!〜非接触型社会の未来を選ばないために〜」を、1月25日にアップさいていただきましたきに、動画も文章も無料で観ることができますき、是非たくさんの皆さんにご覧いただきたいがやき。
写真1  酒道 黒金流 サイトトップ写真2  酒道サイト
































2023.1.25写真3  門前編其の弍

世の中は、既にアルコール離れが年々加速しよったけんど、そこにコロナ禍が拍車をかけ、「飲み会らあ必要ない!」っちゅう声が堂々と聞こえはじめ、企業の飲み会も消え去り、会議もオンラインで済まされるようになり、世の中は「非接触型社会」にまっしぐらに進みゆうかのように見えるがよ。


けんど……ホンマに「非接触型社会」の未来を選ぶっちゅう選択でえいがやろうか?


そこで今回は、身体心理学の面から「触れ合い」や「寄り添う」ことや「皮膚の交流」の重要性について学び、そこからリアルで密な宴席の大切さについて考えてみろうっちゅう内容ながやき。


https://shudo-kurogane.jp/shudo/gate02/gate02_23.html















【コミュニケーションする皮膚】

今回参考にさせていただく書籍は、「人は皮膚から癒される」(山口創 著 草思社文庫 700円+税 2022年2月8日発行)ながよ。
写真4  人は皮膚から癒される

この書籍は、桜美林大学教授で臨床発達心理士の山口創氏が、2016年に草思社より発刊した著作を文庫化したもんながやき。


ほんで、まず紹介されちゅう実験は、米国の社会心理学者ジェームズ・コーン氏らあによるもんで、夫婦で実験に参加してもろうて、妻の腕に軽度の電気ショックを与えたときの脳の反応を調べるっちゅう実験ながよ(実際にやのうて与えると予告したときの脅威の反応を調べる)。


結果は、他人と手をつないだときや、誰とも手をつながんときに比べて、夫と手をつないだときの反応がもっとも弱うなったそうながやき。


この実験からは、親密な人から触れられりゃあ、脅威が軽うなるっちゅうことが分かるがよ。


ほんで、次に紹介されちゅう実験は、米国の心理学者サイモン・シュナル氏らあによるもんで、実験参加者を傾斜のある坂のふもとに連れていき、その坂の角度について推測してもらうっちゅうもんながやき。


結果は、友人と一緒に推測した人は一人で推測した人に比べて、傾斜の角度を「緩い」と判断したそうながよ。






さらに、友人による傾斜の緩和効果は、友人関係が親密なばあ大きかったっちゅうがやき。
写真5  人は皮膚から癒される2

つまり、物理的にゃあまったく同じ傾斜の坂やち、親しい人がそばにおるだっけで、それほど険しゅう感じんなるっちゅうことながよ。


これと同じ現象は、「駅までの道のりの判断」「重い荷物を背負うて上る階段の高さの判断」、そして「痛みに耐えられる程度」らあについても起こり、親しい人が寄り添うてくれちゅうだっけで、負担が軽う感じられることが分かっちゅうっちゅうがやき。


さらに著者は、直接触れいじゃち、愛情を持って寄り添うだっけで、皮膚はお互いを感じ、癒しに向けた治癒力を発揮するっちゅうことも、同様に様々な実験事例や研究結果を挙げ、これを証明しちゅうがよ。


たとえば、人の脳は親しい他者をあたかも自分の一部であるかのように感じゆうっちゅう、「自己膨張理論」らあが紹介されちゅうがやき。


また著者は、人はみんなあ、養育者に触れてもろうた記憶を皮膚が持っちゅうと語り、相手が信頼できるか、助けてくれる人かどうかっちゅう感覚は、意識に上る以前の無意識の段階で皮膚が素早い判断をしゆうと考えられると語っちゅうがよ。


ほんで、皮膚が情報処理をしゆうっちゅうこたぁ、数々の実験結果からも明らかであり、触れてのうたち近くにおる相手を感じ、判断しゆう可能性があるっちゅうて語るがやき。







【皮膚で交流する日本人】
真6  人は皮膚から癒される3


続いて著者は、もともと日本人のスキンシップは奇妙やといわゆうっちゅうがよ。


幼少期こそよう触れゆうもんの、子供が成長すりゃあまったく触れんなってしまうっちゅうがやき。


成人後は、握手やハグの文化もないき、恋人や夫婦以外の人と直接触れることはほとんどないなってしまうっちゅうがよ。


ところが、かつての日本の文化じゃあ、このような成人のスキンシップの不足を補うための装置が備わっちょったと著者はゆうて、そりゃあ皮膚の交流じゃっちゅうて語るがやき。


日本人は常に人と人との交流の中に暮らしの中心を置いちょったきに、直接的に皮膚を接触せいじゃち、皮膚は他者を常に身近に感じよったがやないろうかっちゅうて語っちゅうがよ。


ところが近年は、親しい人らあとの生活の場であるコミュニティが崩壊し、その一方で欧米流の「プライバシーの保護」が重視されるようになり、互いに干渉せんことをよしとする風潮が強まった結果、人との境界感覚はさらに強まっていきゆうがやき。


それに追い打ちをかけるように、近年じゃあSNSの普及によって、面と向こうて交流せん関係も急速に増えゆうがよ。


そこじゃあ境界としての皮膚の感覚を介さんと、直接的に情報が目から脳にインプットされるがやき。


あらかじめよう知っちゅう人との間のSNSの交流やったらまだえいろうけんど、それやち日常的なディスコミュニケーション(コミュニケーションが機能してない状態のこと)は常に起きゆうっちゅうて、著者は語るがよ。


さらに、そこに長期にわたるコロナ禍が追い打ちをかけ、「非接触型社会」に向こうて突き進む……。


著者も、SNSらあのツールは便利なコミュニケーション手段であり、否定することはできんと語っちゅうがやき。


けんど、その便利さや気楽さに慣れてしもうて、面と向こうての交流が面倒やと感じるようになってしもうたとすりゃあ、そりゃあどうやろうかっちゅうて語るがよ。


直接的に触れたり、近くで寄り添うたりして、境界の感覚を拓くことで起こる「心の反応」は、人としての生きがいや尊厳を保つために本質的な意味を持つと思うっちゅうて、著者は改めて強調するがやき。


ほいたら、日本人が大切にしてきた、皮膚の境界感覚を拓く装置たぁいったい何ながやろか。


【「流体としての境界」と「あわい」の境界感覚】


著者は、英国の社会人類学者ティム・インゴルド氏の、境界についての興味深い見方を紹介されちゅうがよ。


人間の住む大地や大気の境界をどう捉えるかやけんど、まず「剛体としての境界」は、固体としての大地の上に(外部に)人間が存在し、その上に大気がのっちゅうイメージやというがやき。


けんど、実際の大気や大地の性質を考えてみりゃあ、地球から見りゃあ流体としてのあり方が近いっちゅうがよ。


これが「流体としての境界」やっちゅうがやき。


地表面は大気と大地っちゅう二つの流体の界面であり、人間はその上でそれぞれの影響を受けゆう存在とみることができるっちゅうがよ。
写真7  人は皮膚から癒される4

さらにいやぁ、1人の人間の境界も同じように考えることができるっちゅうがやき。


人間を剛体としてみりゃあ、環境から隔てられちゅう境界を持ち、その内側に変動しがたい性格が宿っちゅうっちゅうイメージとなり、従来の心理学の性格観はこのようなもんやったそうながよ。


けんど、実際の人体の60%は液体であり、人間自身の境界である皮膚も流体のイメージの方がむしろ近いことになるっちゅうがやき。


ほいたら人間っちゅうんは、自然や他者らあ様々なもんにダイナミックに影響されゆう流体としての存在であり、性格っちゅうんはその時々刻々と変化する状況によって現れる、その人の1つの側面にすぎんっちゅう捉え方もできるっちゅうがよ。


ほんで著者は、このような流体としての境界と似いた概念を、日本語じゃあ「あわい」っちゅうがやと語っちゅうがやき。


ワシらあ日本人の境界感覚っちゅうんは、世界的に見たち特異やといい、日本人独特の「あわい」の境界感覚、つまり境界を曖昧にすることを美徳とするがやっちゅうがよ。


この「あわい」っちゅう言葉は、もともと「会う・合う」が語源やっちゅうがやき。


つまり、「分け・隔てる」ための境界ながやのうて、むしろ相手と境界を共有することを前提にした言葉やっちゅうがよ。


日本人にとっての境界は、「自己」と「他」っちゅうような互いに峻別することによる排斥関係やのうて、むしろ二者の境界を曖昧な状態にすることで未分化な混沌が生まれ、その中にこそ自己を感じられるっちゅうたらえいろうかっちゅうて、著者は説明しちゅうがやき。


ほんで、日本人の境界感覚は、日本の家屋にも見られるっちゅうがよ。


欧米じゃあプライバシーを守ることが最優先、境界は強固な壁で仕切り、部屋の入口にゃあ鍵をかけるけんど、それに対して日本じゃあ、衝立や襖、障子らあで区切るだっけながやき。


特に衝立らあ、区切っちゅうことの意思がわずかに感じられる程度のもんで、区切る者と区切られる者の合意があって初めて成り立つような境界ながよ。


また日本の昔ながらの家屋は、環境である自然と家の内部との境界を、区切る場としてやのうて、むしろ「出会いの場」として捉えちょって、そこに縁側っちゅう中間地帯を置いちょったがやっちゅうがやき。


このように、「見られゆうこと、聞かれゆうこと、見えること、聞こえること」っちゅう、「人が住んじゅう気配」を感じられる環境で生活することこそが、日本人にとっての安息であり、それが日本人にとっての住みやすい家やったはずやっちゅうて、著者は語るがよ。


決して個のプライバシーを守ることやなかったっちゅうがやき。


最近、シェアハウスやかつての長屋に住む人が増えゆうっちゅうんは、他人が住んじゅう気配を感じもって住むこと、すなわち境界が拓かれた状態で生活することに憧憬を抱く人が増えゆうためやないろうかと思うっちゅうて、著者は語るがよ。


【日本人の「間人主義」】


俗に日本人は集団主義やといわれるけんど、社会学者の濱口惠俊氏は、日本人の人間関係の特徴について、西洋型の「個人主義」に対する「集団主義」やあないっちゅうて述べちゅうそうながやき(「日本型信頼社会の復権」東洋経済新報社)。


彼によりゃあ、たとえば職場じゃあ、個人を集団の中に埋没さいて、集団の仕事を優先するっちゅうんやのうて、各人が互いに仕事上の職分を超えて協力し合い、それを通じて組織の目標の達成をはかり、それが翻って自分の欲求を満たして、集団としての充実につながるっちゅうんが、「日本的集団主義」ながやといい、これを「間人(かんじん)主義」っちゅうがやっちゅうて語っちゅうがよ。


西洋の文化は、すべてを個人の力と責任で成し遂げることに価値を置くもんであり、それにゃあ自己を律する強い自我が必要ながやき。


このように西洋の「個人主義」じゃあ、人に依存するよりか個々人が独立して社会を生き抜くことに価値を置き、人間関係それ自体に無条件に価値を置くもんじゃあないがよ。


それに対して日本人は、自己を他から独立した「個人」やのうて、「間人」として捉えちゅうがやっちゅうがやき。


自分を、人と人との「間柄」に位置づけられた相対的な存在じゃと感じる、自立やのうて、相互依存こそ人間の本態やっちゅう価値観やっちゅうがよ。


この相互に信頼し助け合う価値観を、「間人主義」っちゅうがやき。


個人主義は、独立したAとBがそれぞれの領域を守りもって相互作用をするがやき。


それに対して間人主義の場合、AとBの生活空間は互いに重なり合うちょって、他者との相互に包摂するような関わりの中で、個人個人が主体性を確立し、そこにアイデンティティを感じちゅうがやっちゅうがよ。


日本人は、「個人主義」でものうて、「集団主義」でものうて、「間人主義」の価値観に基づいて社会や組織に関わっちゅうっちゅうことながやき。


ほんで、そのためにゃあ、境界の感覚がきちんと拓かれちゅう必要があるっちゅうて語っちゅうがよ。


【触れ合い、寄り添うこと、そして皮膚の交流は、日常のどこにある?】


ほんで著者は、沖縄の多良間島の実例をいくつか挙げちゅうがやき。


まず、多良間島の子どもらあは、真っ黒に日焼けして、自然との境界をなくし、海中でも熱帯魚らあとともに泳ぎよったらしゅうて、彼らの皮膚が拓かれちゅうことに新鮮な驚きを感じたっちゅうて語っちゅうがよ。


ほんで、大人はマラソン大会や運動会らあの親睦会が頻繁に行われ、老若男女区別のう一体となるがやっちゅうがやき。
写真8  人は皮膚から癒される5

さらに、親(バンカー)になった者が同じコップで同じ酒をまわし飲みしていくっちゅう風習である「オトーリ」を紹介し、こりゃあ他者との境界感覚を一気になくす働きを持つがやっちゅうがよ。


ほんで、多くの人との境界を拓いて、人との関わりに全幅の価値を置く社会を目指すことが、日本人としての幸福を追求する上で必要なことやないろうかっちゅうがやき。


誰もが傷つき弱さを抱えもって生きちゅう社会じゃあ、そのような対人関係の質がまっと求められる時代ながやと思うっちゅうて、著者は語るがよ。


このような多良間島の事例は、ワシにとっちゃあ、まさに土佐の高知そのまんまやったがやき。


土佐の子どもは「川ガキ」と呼ばれ、鮎とともに川で泳ぎ、自然に対する皮膚の境界が拓かれちゅうがよ。


土佐の宴席は、「杯が飛び交う」といわれ、同じ杯を全員と酌み交わす「献杯」「返杯」の文化があり、さらに「はし拳」「可杯(べくはい)」っちゅう、酒を飲ませ合う「お座敷遊び文化」があるがやき。


けんど、そんな土佐の伝統的な「おきゃく(土佐流宴会)」文化も、コロナ禍の長期化により、今や絶滅が危惧されちゅう状況ながよ。


コロナ禍によって、親密な集いや飲み会は消え去り、会議もオンラインで済まされるようになり、世の中は「非接触型社会」にまっしぐらに進みゆうかのようながやき。


けんど、今回ご紹介したとおり、身体心理学の面から見て、「触れ合い」や「寄り添う」ことが人間にとって極めて重要やっちゅうこたぁ明らかであり、特に日本人にとっちゃあ、皮膚の交流は本来欠かせれんもんながよ。


つまり、「非接触型社会」の未来を選ぶっちゅううこたぁ、ディストピア(逆ユートピア)の未来を選ぶっちゅうことになるといえるがやき。


ほんで、ワシらあがより多くの仲間らあと心を許して直に触れ合うっちゅうシーンは、日常の中のどこにあるかっちゅうたら、そりゃあリアルで密な宴席の中ながよ。


ところが、長期化するコロナ禍、外出や移動や集いが制限されるなかじゃあ、そりゃあ消え去ってしもうちゅうがやき。


コロナ禍もいつかは必ず終息するけんど、そんとき、終息後も「非接触型の世界」を目指すっちゅう流れは、確実に残るがよ。


けんど、そんな流れは世の中をディストピアに導くことになるがやっちゅうて誰かが発信し、伝え続けにゃあならんがやき。


その「誰か」の筆頭に、土佐の高知が、土佐人が、ならにゃあいかんがよ。


ただ単に、「酒を飲もう!」とか「宴会をしょう!」とかっちゅうだけやのうて、「触れ合いや寄り添うこたぁ人間にとってこぢゃんと重要で、特に日本人にとっちゃあ皮膚の交流が欠かせれんがやき、リアルな宴席を復活させろうぜよ!」っちゅうて、伝え続けるっちゅうことながやき。


もちろんワシ自身も、これを高知県酒造組合理事長として、今後の最大の仕事やと確信しちょって、今後も様々な活動を繰り広げていく予定ながよ。


ともに発信し、伝え続けてまいりましょうや!


さて、こんな感じの内容についてや、まっと詳しい内容らあについて知りたい方は、下記をクリックし、無料のYouTube動画やPDF原稿を、是非ご覧いただきたいがぜよ。


https://shudo-kurogane.jp/shudo/gate02/gate02_23.html


















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Posted by tsukasabotan at 09:38│Comments(0)