今回は、ワシが創始して立ち上げさいてもうた、日本酒を媒介とした「もうひとつの道」、「酒道 黒金流」ホームページ(https://shudo-kurogane.jp )の「門前編 其の弐」に、新しいコンテンツとして「スピノザ哲学から考える新時代、そして日本酒と酒道!<Part.1>を、8月25日にアップさいていただきましたきに、動画も文章も無料で観ることができますき、是非たくさんの皆さんにご覧いただきたいがやき。
今回から何回かにわたって、17世紀オランダの哲学者、スピノザの哲学を取り上げさいていただくことにさいてもうたがよ。
難解なことで有名なスピノザやけんど、ベースとさいていただいたがは、気鋭の哲学者である國分功一郎氏の「はじめてのスピノザ〜自由へのエチカ〜」(國分功一郎 著 講談社現代新書 2020年11月20日発行 860円+税)っちゅう読みやすい新書本ながやき。
ちなみに本書の内容は、NHK「100分 de 名著」にて取り上げられた、「スピノザ エチカ〜『自由』に生きるとは何か〜」の内容に新たに1章を加え、全体を再構成したものやっちゅうがよ。
ほんじゃき、こぢゃんと分かりやうて、かつメチャクチャ面白い書籍やきに、是非ご一読を強うお薦めするがやき。
本書のオビにゃあ、「次々と覆される常識の先に、ありえたかもしれないもうひとつの世界が浮かび上がる。」っちゅうて書かれちゅうとおり、きっと目からウロコが落ちまくると思うがよ。
スピノザは精神と身体の関係について徹底して考えた哲学者であり、現代の脳神経科学や医学からも、スピノザの主張の正しさが証明されつつあるっちゅうがやき。
ほんでその内容は、これからの時代、新時代にこそ必要とされるもんじゃと、強う感じちゅうがよ。
さらにその内容は、日本酒に対しても酒道に対しても、こぢゃんと重要な示唆を与えてくれるがやき!
まずは、本書の内容から抜粋してご紹介さいていただき、そっから日本酒や酒道についても、言及さいていただきたいと思うがよ。
https://shudo-kurogane.jp/shudo/gate02/gate02_30.html
【なぜ、いま「スピノザ エチカ」なのか?】
まず本書の「はじめに」にて著者は、スピノザ(1632〜1677)は17世紀オランダの哲学者であると紹介し、代表的な著書である「エチカ」たぁ、倫理学っちゅう意味やと語っちゅうがやき。
ほんで、300年以上も前の哲学者の本を、なんでいま読む必要があるがかについて、以下のとおり語っちゅうがよ。
スピノザが生きちょった17世紀っちゅう時代は、歴史上の大きな転換点であり、たとえば、いまワシらあが知っちゅうタイプの国家は、この時期に誕生しちゅうがやっちゅうがやき。
この国家形態は「主権」っちゅう言葉で特徴づけられるけんど、ワシらあが「国民主権」っちゅう表現を通じて慣れ親しんじゅうこの考え方がヨーロッパで始まるがも、17世紀やっちゅうがよ。
さらに学問に目を向けりゃあ、デカルトが近代哲学を、ニュートンが近代科学を打ち立てるがもこの時期やっちゅうがやき。
つまり、現代へとつながる制度や学問がおよそ出揃うて、ある一定の方向性が選択されたがが17世紀ながやっちゅうて、著者は語っちゅうがよ。
ほんで、スピノザはそのように転換点となった世紀を生きた哲学者やけんど、他の哲学者らあとチビッと違うちょって、彼は近代哲学の成果を充分に吸収しつつも、その後近代が向こうていった方向たぁ別の方向を向きもって思索しよったっちゅうて語るがやき。
それを著者は、やや象徴的に、スピノザの哲学は「ありえたかもしれん、もうひとつの近代」を示す哲学である、ちゅうことができるっちゅうがよ。
そのようにとらえる時、スピノザを読むこたぁ、いまワシらあが当たり前やと思うちゅう物事や考え方が、決して当たり前じゃあないこと、別のあり方や考え方も充分にありうることを知る大きなきっかけとなるはずやっちゅうがやき。
ほんで著者は、スピノザは基本的な考え方がワシらあとチビッと違うちょって、この哲学を理解するためにゃあ多少注意が必要になるがやっちゅうがよ。
著者がスピノザ哲学を大学で講じる際、学生に向けて、ようこんなたとえ話をするがやっちゅうがやき。
「たくさんの哲学者がおって、たくさんの哲学があるがよ。それらあをそれぞれ、スマホやパソコンのアプリとして考えることができるがやき。ある哲学を勉強して理解すりゃあ、すなわち、そのアプリをおまさんらあの頭の中に入れりゃあ、それが動いていろいろなことを教えてくれるがよ。ところが、スピノザ哲学の場合はうまいことそうならん。なんでかっちゅうたら、スピノザの場合、OS(オペレーティング・システム)が違うがやき。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためにゃあ、思考のOS自体を入れ替えにゃあならん……。」
ほんで著者は、「ありえたかもしれん、もうひとつの近代」っちゅう時、ワシが思い描いちゅうがは、このようなアプリの違いやのうて、OSの違いやっちゅうて語り、スピノザを理解するにゃあ、考えを変えるがやのうて、考え方を変える必要があるがやっちゅうて語るがよ。
現代は、あらゆる分野において行き詰まりを迎えちゅう時代であり、これからの時代、すなわち新時代を、明るい希望で満ちたもんにするためにゃあ、考えを変えるレベルやのうて、考え方を変える必要があり、そういう意味でこれからの新時代には、スピノザ哲学的な考え方がきっと必要とされるがやないろうかっちゅうて、ワシゃあ強う感じちゅうがやき。
【スピノザの思想、そして「エチカ」とは?】
まず著者は、スピノザの思想は、教科書らあじゃあしばしば「汎神論」(森羅万象あらゆるものが神であるっちゅう考え方)と解釈されちゅうけんど、日本で馴染み深い「八百万の神」みたいな多神教的な自然崇拝やのうて、スピノザの「汎神論」じゃあ神はただ一つながやっちゅうがよ。
ほんで、スピノザの哲学の出発点にあるがは、「神は無限である」っちゅう考え方であり、ほいたら「ここまでは神やけんど、こっから先は神やない」っちゅう線が引けんことになり、言い換えりゃあ、神にゃあ外部がないっちゅうことやっちゅうがやき。
神は絶対的な存在であるはずで、ほいたら神が無限でないはずらあないし、ほんで神が無限やったら、神にゃあ外部がないはずやきに、したがって、すべては神の中にあるっちゅうことになるがよ。
これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方やっちゅうて、著者は語っちゅうがやき。
「神」っちゅう言葉を聞きゃあ、宗教的なもんを思い起こしてしまうことが多いと思うけんど、スピノザの考え方は「神即自然」であり、むしろ自然科学的であり、宇宙のような存在を神と呼びゆうがやっちゅうて、そりゃあ非常に先進的やったと、著者は語るがよ。
以上を踏まえて、「エチカ」の内容を見ていきゃあ、まずタイトルの「エチカ」は、「倫理学」を意味するラテン語やっちゅうて、倫理学たぁごく簡単に言うたら、どのように生きるかを考える学問のことやと、著者はいうがやき。
ほんで語源まで遡りゃあ、エチカとしての倫理の根源にゃあ、自分がいまおる場所でどのように住み、どのように生きていくかっちゅう問いがあるがやっちゅうがよ。
仮に道徳が超越的な価値や判断基準を上から押しつけてくるもんやとすりゃあ、倫理っちゅうんは、自分がおる場所に根ざして生き方を考えていくことやといえるっちゅうて、著者は語っちゅうがやき。
【組み合わせとしての善悪】
ほんで著者は、ここを出発点にすりゃあ読みやすいっちゅうて、「エチカ」の第四部から解説をスタートしちゅうがよ。
ここじゃあ善悪の概念が検討されちょって、「善い」と「悪い」が独自の仕方で定義されることになるがやっちゅうがやき。
話は「完全」と「不完全」っちゅう概念の分析から始まるがよ。
ワシらあはこれらあの言葉を日常的に使いよって、たとえば建築途中の家を見りゃあ不完全やと口にするがやき。
ほいたら、なんでそれを不完全と呼ぶかっちゅうたら、ワシらあが完成された家についての一般的観念をもっちょって、それと比較しゆうからやっちゅうがよ。
完全/不完全は、しばしば自然界のもんについても言われ、牛っちゅう動物について、牛の一般的観念と一致すりゃあ、ワシらあはそれを完全と言い、そうやなけりゃあ、たとえば角が1本しかないき不完全やっちゅう具合やと語ってちゅうがやき。
けんど、この一般的観念っちゅうんはいわゆる偏見じゃっちゅうて著者は語るがよ。
これまで何度も見たもんに基づいて作られた観念にすぎんからやっちゅうがやき。
それぞれの個体はただ一つの個体として存在しちゅうにすぎんのやっちゅうて、著者はいうがよ。
ほんで、そのことを指摘したスピノザは、すべての個体はそれぞれに完全ながやと語っちゅうっちゅうがやき。
善悪の話が始まるがはこっからやっちゅうがよ。
自然界に完全/不完全の区別が存在せんように、自然界にゃあそれ自体として善いもんとか、それ自体として悪いもんは存在せんとスピノザは語っちゅうっちゅうがやき。
ほいたら、自然界にゃあ存在せん善悪の考えがワシらあのもとにもたらされるがはどのようにしてかっちゅうたら、スピノザは「組み合わせとしての善悪」っちゅう考え方を提案しちゅうそうながよ。
例として取り上げられちゅうがは音楽ながやき。
憂鬱な人と音楽が組み合わされりゃあ、その人にゃあ力が湧いてくるき、憂鬱な人にとっちゃあ音楽は善いもんながよ。
けんど、傷つき悲しみに沈んじゅう人にとっちゃあ、音は悲しみに浸るにあたっちゃあ邪魔でしかないかもしれんき、そのような意味でその人にとっちゃあ音楽は悪いもんになるがやき。
耳が不自由な人にゃあ、音楽は善うも悪うもないがよ。
つまり、自然界にゃあそれ自体として善いもんや悪いもんはないけんど、うまいこと組み合わさるもんとうまいこと組み合わさらんもんが存在する……それが善悪の起源やとスピノザは考えちゅうと著者は語るがやき。
たとえばトリカブトっちゅう植物は毒をもっちゅうけんど、そりゃあトリカブトと人間の組み合わせが悪いっちゅうことを示しちゅうにすぎんがよ。
トリカブト自体はただ一つの完全な植物として自然界に存在しちゅうだけながやき。
トリカブト自体は悪うない。人間とうまいこと組み合わさることができんだけながやと、著者は語るがよ。
スピノザはこうして、世間一般で用いられゆう完全/不完全、善/悪の考え方のどこに問題があるかを明らかにしたっちゅうがやき。
自然界にゃあ完全/不完全の区別らあないし、それ自体として善であるもんも悪であるもんも存在せんがよ。
ほいたら、完全/不完全、善/悪っちゅう言葉を使うがはやめろうっちゅうことかっちゅうたら、そうじゃあないがやき。
スピノザは以上を踏まえた上で、これらあの言葉を再定義して使い続けることにしょうっちゅうて提案するがやっちゅうがよ。
スピノザが考えろうとしゆうがは、いかに生きるべきかっちゅう問いであり、この倫理学的問いに答えるためにゃあ、望ましい生き方と望ましゅうない生き方を区別することが必要ながやき。
もし完全も不完全もないし、善も悪もないっちゅうだけやったら、どんな生き方をしたち変わりないっちゅうことになってしまうがよ。
ほんじゃき、世間一般でのこれらあの用語の用いられ方を一度批判的に検討した上で、やっぱし善い生き方、悪い生き方を考えなけれゃあならんと提案しちゅうがやと、著者は語っちゅうがやき。
ほいたら何が善うて何が悪いがかっちゅうたら、スピノザはあくまでも組み合わせで考え続けるがやっちゅうがよ。
先ほどの音楽の例でいやあ、なんで音楽は憂鬱な人にとって善いがかっちゅうたら、そりゃあ音楽が落ち込んじゅう人の心を癒やし、もっちょった力を取り戻す手助けをしてくれるき、つまり力を高めてくれるきながやき。
スピノザはこのことを、「活動能力が高まる」っちゅう言い方で表現しちゅうそうながよ。
ワシにとって善いもんたぁ、ワシとうまいこと組み合わさってワシの「活動能力を増大」させるもんであり、そのことを指してスピノザは、「より小なる完全性から、より大なる完全性へと移る」とも述べちゅうっちゅうがやき。
完全性っちゅう言葉もこのような意味で使い続けろうっちゅうわけながよ。
ここからもう一度、いわゆる道徳とスピノザ的な倫理の違いについて考えることができるっちゅうて、著者は語るがやき。
道徳は既存の超越的な価値を個々人に強制し、そこじゃあ個々人の差は問題にならんがよ。
それに対しスピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えるきに、個々人の差を考慮するわけやっちゅうがやき。
たとえば、この人にとって善いもんはあの人にとっちゃあ善うないかもしれんがよ。
この人はこの勉強法でうまいこと知識が得られるけんど、あの人はそうやないかもしれんがやき。
そのように個別具体的に考えることを、スピノザの倫理は求めるがやっちゅうがよ。
個別具体的に組み合わせを考えるっちゅうこたぁ、何と何がうまいこと組み合うかはあらかじめ分からんっちゅうことでもあるがやき。
たとえばこのトレーニングの仕方が自分に合うちゅうかどうか、そりゃあやってみんと分からんがよ。
その意味で、スピノザの倫理学は実験することを求めるがやき。
どれとどれがうまいこと組み合うかを試してみるっちゅうことやと、著者は表現しちゅうがよ。
ほんで著者は、もともとは道徳もそのような実験に基づいちょったはずで、それが忘れられて結果だけが残っちゅうがやと語っちゅうがやき。
ほんじゃき、道徳やきに拒否すべきやっちゅうことにゃあならんと、ただ、個々人の差異や状況を考慮に入れんとに強制されることがあるやったら、注意が必要になるわけやっちゅうて、著者は語るがよ。
スピノザの善悪の考え方は、その感情論と直結していると著者はいいますがやき。
スピノザは感情を大きゅう喜びと悲しみの二つに分けちゅうがやけんど、より大なる完全性へと移る際にゃあ、ワシらあは喜びの感情に満たされるがやっちゅうて言うちゅうそうながよ。
反対の場合は悲しみやっちゅうがやき。
「エチカ」じゃあ、大きゅう二つに分けられた感情が、たとえば愛っちゅう喜び、共感の喜びらあて、さらに細こうに分析されちゅうっちゅうて著者はいうがよ。
【スピノザの「完全/不完全」「善/悪」等から新時代を考える】
さて、現代はあらゆる分野において行き詰まりを迎えちゅう時代であり、閉塞感が蔓延し、誰しもが息苦しさや生きづらさを感じゆう時代であるともいえるがやき。
そんな時代に、スピノザの「完全/不完全」「善/悪」の考え方を導入したとき、そこに大いなる救いを感じるがは、ワシだけじゃあないろうと思うがよ。
「すべての個体はそれぞれに完全である」、「それ自体として善いもんも悪いもんものうて、善悪は物事の組み合わせで決まる」……何ちゅう大いなる救いの言葉やろうと思わんかよ!
人は誰しも、自分の中に嫌いな自分がおって、それを欠点やとか悪やとかっちゅうて認識しちょって、そのことが息苦しさや生きづらさの原因のひとつになっちょったりするがやき。
けんど、考え方をスピノザのOSに切り替えた瞬間、すべての個体がそれぞれに完全であるがやったら、自分の中に欠点や悪らあ存在せんっちゅうことに気づくがよ。
欠点や悪に見えるもんは、実は組み合わせが悪いだっけながやっちゅうことに気づくがやき。
たとえば、短気っちゅう性格をもっちゅう人の場合、確かに日常の家庭生活において、家族からは「怒りんぼ」っちゅうて非難されることが少のうないかもしれんがよ。
けんど、災害らあの緊急事態が起こった際にゃあ、その性格が素早い判断を生んで、危機一髪で家族を救うことになるかもしれんがやき。
つまり、一見して欠点や悪に見えるようなどんな性格であったち、組み合わせが悪いっちゅうだっけのことであり、組み合わせが善けりゃあ、そりゃあ美点になるっちゅうことながよ。
ほんで、このようなスピノザOSは、これからの新時代をどのように生きていくかっちゅう問いに対して、新たな答えの方向性を示してくれちゅうように、ワシにゃあ強う感じられるがやき。
【スピノザの「完全/不完全」「善/悪」等から酒類、日本酒、酒道を考える】
ほんで、スピノザの「完全/不完全」「善/悪」等の考え方は、酒類に対してもこぢゃんと重要な示唆を与えてくれるがよ。
コロナ禍で緊急事態宣言が発出された際、日本全国の飲食店に対して時短営業や休業が要請されたがやき。
さらに飲食店での酒類提供の禁止までが要請され、まるで酒類だっけが悪者であるかのように扱われてしもうて、コロナがインフルエンザと同じ5類に移行してからやち、その影響は長うに尾を引きゆうがよ。
ほんじゃきワシゃあ、「酒道 黒金流」において、以前「酒を悪者にしない『哲学』」の必要性について語らせていただいたがやき。
そこじゃあ、「アルコール医学協会」の大切な役割、「集いの中で酒を酌み交わす」っちゅう行為の重要性、「味わう」っちゅう行為の重要性、「美味しさの感動を描写し伝える」っちゅう行為の重要性らあについて、論じさいていただいたがよ。
ほんで今回、その「酒を悪者にしない『哲学』」の根本に、スピノザOSの「完全/不完全」「善/悪」らあの考え方を置きたいと考えちゅうがやき。
日本酒もビールもワインも、焼酎もウィスキーもブランデーも、ジンもリキュールも……すべての酒類はそれぞれに完全であり、それ自体として善いもんも悪いもんものうて、酒類の善悪は全て組み合わせで決まるがやっちゅうことを、強うに訴えたいと思うちゅうがよ。
酒類自体が悪いがやのうて、20歳未満の人や車の運転をする人との組み合わせが悪いがやっちゅうことながやき。
さらにコロナ禍でいやあ、酒類自体が悪いがやのうて、酒を飲んだ際の効用のひとつともいえるお互いが密になって酌み交わすっちゅう行為と感染症対策との組み合わせが悪いっちゅうことになるわけながよ。
このようにスピノザOSで考えりゃあ、酒類提供の禁止はやっぱしやり過ぎであり、もうちくと別のやり方があったがやないろうかといえるっちゅうことながやき。
ほんで、20歳未満でものうて、この後の運転ものうて、通常の健康体やって、お酒が飲める人と日本酒が組み合わさったとき、さらにそこに和食が組み合わさりゃあ、そりゃあ素晴らしい善となるっちゅうことながよ。
和食以外やち、特にうま味の多い出汁を使うた料理、苦味のある野菜料理、鶏卵や魚卵を使うた料理、炭火焼きや干物らあの燻製料理、酸味の強い料理、刺激の強い辛味のある香辛料やスパイスを使うた料理、貝類や海藻類らあのヨード香のある料理らあに対しちゃあ、世界の食中酒の代表であるワインよりか、圧倒的に日本酒の方が善となるがやき。
また「酒道」についてやち、スピノザOSの「完全/不完全」「善/悪」等の考え方は、こぢゃんと重要な示唆を与えてくれるがよ。
「酒道」が自身と組み合わさったとき、活動能力が低うなるやったらこの組み合わせは悪であり、活動能力が高まるやったら、この組み合わせは善であるがやといえるがやき。
ほんで、「酒道」との組み合わせが善である人々が、この道を歩んでいくとき、スピノザ流に表現すりゃあ、その人々はより小なる完全性から、より大なる完全性へと移っていくがやっちゅうことになるがよ。
さてさて、ここまでかなりの長文やったけんど、本編じゃあまっと詳しゅうに紹介さいていただいちゅうきにまっと詳しゅう知りたい方は、下記をクリックし、無料のYouTube動画やPDF原稿を、是非ご覧いただきたいがぜよ。
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