「長寿百歳、尊きにあらず。今を永遠に生きることが肝要ながぜよ。」(佐々木蓮麿)
浄土真宗の僧で、臼杵仏教会会長、大分県仏教会会長、善法寺住職でもあった、佐々木蓮麿(1896〜1978)さんの言の葉ながやき。
「今を永遠に生きる」たぁ、いったいどうゆう意味ながやろうか?
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの著作に「論理哲学論考」があって、そん中に、次の一節があるそうながよ。
「死は人生の出来事にゃああらず。人は死を体験せん。永遠が時間の無限の持続のことじゃのうて、無時間性のことと解されるやったら、現在のうちに生きるもんは、永遠に生きるがぜよ。」
つまり、死は人生の出来事じゃあないっちゅうことながやき。
なんでかっちゅうたら、人は自分の死を体験せんきながよ。
死ぬる直前まで生きちゅうわけやし、死ぬる瞬間にゃあ生きてないがやき、生きてないに体験することらあできんっちゅうことながやき。
時計の刻む時間やのうて、自分の意識、自分の人生で考えりゃあ、終わりはないっちゅうことながよ。
生きちゅう自分の人生にゃあ、自分の死っちゅうもんは存在せんっちゅうことながやき。
この世に生きちゅう人で、死を体験した人らあて1人もおらんがやき、誰っちゃあ体験することができん死のことらあに惑わされるがやのうて、そんなもんらあたぁキッパリと決別して、今をいかに生きるかを追及すべきやっちゅうことながよ。
生と世界に意味があるっちゅうて考えて、そのように生きるがを徹底的に追求していくことを通して、今っちゅう時間を「永遠に生きる」ことが可能となるっちゅうことながやき。
瞬間の中にこそ、永遠は瞬き現れるっちゅうことながぜよ!