2023年09月26日

【酒道 黒金流】「スピノザ哲学から考える新時代、そして日本酒と酒道!<Part.2>ぜよ!

今回は、ワシが創始して立ち上げさいてもうた、日本酒を媒介とした「もうひとつの道」、「酒道 黒金流」ホームページ(https://shudo-kurogane.jp )の「門前編 其の弐」に、新しいコンテンツとして「スピノザ哲学から考える新時代、そして日本酒と酒道!<Part.2>を、9月25日にアップさいていただきましたきに、動画も文章も無料で観ることができますき、是非たくさんの皆さんにご覧いただきたいがやき。
2023..9.26写真1 酒道 黒金流サイトトップ









前回から何回かにわたって、17世紀オランダの哲学者、スピノザの哲学を取り上げさいていただくことにさいてもうちゅうがよ。
2023.9.26写真2 門前編其の弐









難解なことで有名なスピノザやけんど、ベースとさいていただいたがは、気鋭の哲学者である國分功一郎氏の「はじめてのスピノザ〜自由へのエチカ〜」(國分功一郎 著 講談社現代新書 2020年11月20日発行 860円+税)っちゅう読みやすい新書本ながやき。
写真3 スピノザPart.2写真4 スピノザPart.2 文章










ちなみに本書の内容は、NHK「100分 de 名著」にて取り上げられた、「スピノザ エチカ〜『自由』に生きるとは何か〜」の内容に新たに1章を加え、全体を再構成したものやっちゅうがよ。


ほんじゃき、こぢゃんと分かりやうて、かつメチャクチャ面白い書籍やきに、是非ご一読を強うお薦めするがやき。
写真5 スピノザPart.2 動画写真6 スピノザPart.2 参考書籍









まずは、本書の内容から抜粋してご紹介さいていただき、そっから日本酒や酒道についても、言及さいていただきたいと思うがよ。


https://shudo-kurogane.jp/shudo/gate02/gate02_31.html

【コナトゥスこそ物の本質】


前回まででスピノザは、組み合わせとしての善悪っちゅう発想により、たとえばこの音楽はワシの活動能力を高めてくれる、この食べ物は活動能力を低めてしまうっちゅう風に、活動能力の増減っちゅうもんに、生きる上での一つの基準を求めたわけじゃと、著者はいうがやき。


活動能力っちゅうんは、つまり力であり、自分のもつ力が、組み合わせにより上がったり下がったりするっちゅうことやというがよ。


ほんで、これからいくつか紹介していく新しい言葉のトップバッターとして、ラテン語で「コナトゥス(conatus)」っちゅうスピノザの有名な概念を紹介しちゅうがやき。


この言葉を、あえて日本語に訳しゃあ「努力」となってしまうがやけんど、こりゃあ頑張って何かをするっちゅう意味やのうて、「ある傾向をもった力」と考えればえいやろうと、著者は語っちゅうがよ。


ほんで、コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指しちょって、医学や生理学でいう恒常性(ホメオスタシス)の原理にこぢゃんと近いっちゅうことができると語るがやき。


たとえばワシっちゅう個体の中の水分が減りゃあ、ワシの中に水分への欲求が生まれ、それが意識の上じゃあ「水が欲しい」っちゅう形になるっちゅうがよ。


ワシらあの中じゃあいっつも、自分の恒常性を維持しょうとする傾向をもった力が働きゆうがやと、著者はいうがやき。


ほんで、次のコナトゥスを定義した定理を紹介しちゅうがよ。


「おのおのの物が自己の有(著者注:存在)に固執しょうと努める努力はその物の現実的本質にほかならん。」


ここで「努力」と訳されちゅうががコナトゥスで、つまり「自分の存在を維持しょうとする力」のことやっちゅうがやき。


ほんで著者は、まっこと興味深いがは、この定理でハッキリと述べられちゅうように、ある物がもつコナトゥスっちゅう名の力こそが、その物の「本質」やとスピノザが考えちゅうことやと語っちゅうがよ。


「本質」は日常でもよう使われゆう言葉やけんど、哲学から来ちゅうがやっちゅうがやき。


「本質」が力であるっちゅうスピノザの考え方は、それだけを聞いたち「ふーん、そうながや」っちゅう感じかもしれんけんど、哲学史の観点から見りゃあ、ここにゃあこぢゃんと大きな概念の転換があるっちゅうがよ。


古代ギリシアの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていたがやそうで、この「形」のことをギリシア語で「エイドス(eidos)」と呼ぶがやっちゅうがやき。


物の本質はその物の「形」であるっちゅう考え方も、それだけ聞きゃあ特に驚くべきもんやないと思われるかもしれんけゎど、実はワシらあの考え方はこれと無関係じゃあないがやっちゅうて著者は語っちゅうがよ。


たとえば競馬場や牧場で見る馬と、アフリカのサバンナにおる野生のシマウマとを、ワシらあは同じ馬やと考えるがやき。


色や模様は違うけんど、どちらも馬の形をしちゅうきながよ。


けんど実際にゃあ、両者の生態は全く異なっちゅうがやと著者は指摘するがやき。


家畜化された馬は人を背中に乗せることができるけんど、野生のシマウマに乗るこたぁできんそうながよ。


つまり、家畜化された馬がもっちゅう力と、シマウマがもっちゅう力はその性質が大きゅう異なっちゅうっちゅうことながやき。


力の性質に注目すりゃあ、馬とシマウマはまるで別の存在として現れるがよ。


にもかかわらんと、ワシらあはそれらあを形でとらえるきに、両者を同じゅう馬やと考えるわけやと、著者は語るがやき。


さらに著者は、このエイドス的なものの見方は、道徳的な判断とも結びついてくるっちゅうて、人間について考えてみましょうっちゅうがよ。


たとえば男性と女性っちゅうんも、確かにそれぞれ一つのエイドスとしてとらえることができるがやき。


そうすりゃあ、たとえばある人は女性を本質とする存在としてとらえられることになるけんど、そん時、その人がどんな個人史をもち、どんな環境で誰とどんな関係をもって生きちょって、どんな性質の力をもっちゅうがかっちゅうこたぁ、無視されてしまうっちゅうがよ。


その代わりに出てくるがは、「おまさんは女性やっちゅうことを本質としちゅうがやき、女性らしゅうありなさい」っちゅう判断ながやき。


エイドスだけから本質を考えりゃあ、男は男らしゅう、女は女らしゅうしろっちゅうことになりかねんわけやっちゅうて、著者は語るがよ。


それに対しスピノザは、各個体がもっちゅう力に注目し、物の形やのうて、物がもっちゅう力を本質と考えたがやっちゅうがやき。


そう考えるだけやち、ワシらあのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きゅう変わるがよ。


「男やから」「女やから」っちゅう考え方が出てくる余地はないがやっちゅうがやき。


たとえば、この人は体はあんまり強うはないけんど、繊細なものの見方をするし、人の話を聞くがが上手で、しかもそれを言葉にすることに優れちゅうきに、この人にゃあこんな仕事が合うちゅうやろう……そんな風に考えられるわけやと、著者は語っちゅうがよ。


ほんで、当然ながら、このような本質のとらえ方は、活動能力の概念に結びついちゅうがやっちゅうがやき。


活動能力を高めるためにゃあ、その人の力の性質が決定的に重要となるがよ。


一人ひとりの力のありようを、具体的に見て組み合わせを考えていく必要があるっちゅうがやき。


エイドスに基づく判断(「男やから」「女やから」)は、その意味で実に抽象的であるっちゅうことができるっちゅうて、著者は語るがよ。


ほんで、ここにも「エチカ」のエートス的(※エチカの語源でギリシア語のエートス<ethos>)な発想が生きちゅうと言えるがやっちゅうがやき。


どのような性質の力をもった人が、どのような場所、どのような環境に生きちゅうがか等々を、具体的に考えた時にはじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができるがよ。


ほんじゃき、本質をコナトゥスとしてとらえるこたぁ、ワシらあの生き方そのものと関わってくる、ものの見方の転換ながやっちゅうて、著者は語るがぜよ。


【多くの仕方で刺激されうる状態になること】 


以上の原理的な考察を踏まえて、ちくと応用的な話に移りましょうっちゅうて、著者はスピノザの次の言葉を紹介しちゅうがやき。


「人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益であるがよ。[……]これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害であるがやき。」


世の中にゃあ多くの刺激があり、人間はそんな多くの刺激の中で生きちゅうけんど、実際にゃあワシらあはそん中からほんのちびっとのことだっけを受け取って生きちゅうがやっちゅうがよ。


たとえば著者は、哲学の話題にゃあ強う反応するけんど、スポーツの話題にゃあほとんど反応せんそうながやき。


つまり、目の前にスポーツの情報があったちそれを受け取らんっちゅうがよ。


また、刺激への反応は精神状態にも強う依存するがやっちゅうがやき。


精神的に余裕がある時にゃあ、自然に対して目が向き、その美しさに感動する人が少のうないろうけんど、もし焦りの状態にあったんやったら、そこに目をやることも、感じ入ることもないやろうと著者は語るがよ。


人間が反応できる刺激の数は限られちょって、もしあらゆる刺激に反応しよったら、精神はパンクしてしまうがやっちゅうがやき。


けんど、多くの刺激に反応できるようになりゃあ、そりゃあ必ずや人生を豊かにしてくれるがやっちゅうて、著者は語っちゅうがよ。


音楽を勉強すりゃあ、音楽が違うて聞こえてくるがやき。


美味しい食事を食べよりゃあ、様々な味の刺激を受け取れるようになり、食事をまっと楽しめるがよ。


つまり、これまで受け取ったことのなかった刺激を世界から受け取ることになり、世界が違うて見えてくるがやと語るがやき。


スピノザが「人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの」と言いゆうがは、このようにして受け取れる刺激の幅を広げてくれるもののことで、たとえば「精神的な余裕」もこれに当たるろうし、また「学ぶ」っちゅう行為もこれに当たるがやっちゅうがよ。


それをスピノザは「有益」と言いゆうがやと著者は語るがやき。


次に著者は、自身の好きな箇所として、スピノザの「賢者」の話を挙げてちゅうがよ。


「もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ[……]ことは賢者にふさわしいがやき。たしかに、ほどようとられた味のえい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することのう、各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけるこたぁ、賢者にふさわしいがよ。」


こりゃあまさしゅう「多くの仕方で刺激されうるような状態」にある人のことで、賢者たぁ難しい顔をして山にこもっちゅう人のことやのうて、賢者たぁ楽しみを知る人、いろいろな物事を楽しめる人のことながやと言うちょって、なんちゅう素晴らしい賢者観やろうかっちゅうて、著者は語るがやき。


さらに著者は、スピノザの有名な言葉として、ワシらあは「身体が何をなしうるか」を知らんっちゅう言葉を挙げちゅうがよ。


こりゃあ、身体一般が何をなしうるかをワシらあは知らんっちゅう意味でもあり、ワシの身体が何をなしうるかをワシゃあ知らんっちゅう意味でもあるがやっちゅうがやき。


さらにゃあ身体だけやのうて、ワシの精神が何をなしうるのかもワシにゃあよう分かってないがやっちゅうがよ。


ほんで、それを知るこたぁ、ワシの精神や身体がより多くの仕方で刺激されるようになることにつながるがやっちゅうがやき。


そりゃあ教育の役割でもあるがやと著者は語り、おそらく優れた教育者や指導者っちゅうんは、生徒や選手のエイドスに基づいて内容を押し付けるがやのうて、生徒や選手自身に自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育や指導ができる人ながやと思うっちゅうて語っちゅうがよ。


そう考えりゃあ、古典芸能らあで言う「型」っちゅうんは、その「型」を経ることで自分の力の性質を知ることができる、そのようなもんながかもしれんっちゅうて語るがやき。


【コナトゥスと社会の安定】


著者は、「コナトゥスと本質」(本書の第二章)の最後に、このスピノザ的な本質概念を社会の中で考えるとどうなるかっちゅう問題を考えておきたいっちゅうがよ。


スピノザの考えるコナトゥスたぁ自分の存在に固執する力ながやき。


ほいたらこんな疑問を抱く人もおるがやないろうかっちゅうがよ。


自分の存在に固執する力が人間の本質やったら、そりゃあ社会と矛盾することもあるがやないかっちゅう疑問やと指摘し、順を追って考えていこうと語っちゅうがやき。


スピノザは善悪を組み合わせで考えたがよ。


コナトゥスがうまいこと働いて活動能力が増大するがは、組み合わせがうまいこといった時ながやき。


社会でありゃあ、人と人とがうまいこと関係を築いちゅう時ながよ。


ほんじゃき、コナトゥスっちゅう原理は確かに自らの存在に固執する力じゃああるけんど、そりゃあ決して他人を犠牲にして自らを維持するっちゅうことやないがやと語るがやき。


たとえばコミュニティがうもうに回りゆう時、人々はうまいこと組み合うて互いの力を高めることになるはずで、そりゃあスピノザ的に言うて善いことに他ならんと語り、「エチカ」で言われちゅう次のような表現を著者は紹介しちゅうがよ。


「人はコナトゥスがうもう働いて生きちゅう時、自由であるがやき。そのように自由な人らあは、互いに感謝し合い、偽りの行動を避け常に信義をもって行動し、国家の共通の法律を守ることを欲するがよ。」


ほんで著者は、一人ひとりが自由に生きられることこそ、社会が安定するために一番必要なことやっちゅうがやき。


ほんじゃき、コナトゥスは自分本位の原理やないかと考えるがやのうて、人々が共同で安定して暮らしていくためにゃあ一人ひとりのコナトゥスを大切にすることが必要ながやと考えなけりゃあならんがやと語るがよ。


【コナトゥスから日本酒を考える】


ここまでのスピノザ的なコナトゥス、本質の概念を用いて、日本酒についてを考えてみたいがやき。


まず、競走馬と野生のシマウマの例を思い出していただきたいがよ。


本質を「エイドス」、「形」としてとらえりゃあ、日本酒はワインやビールらあと同様に単に「酒」ながやき。


けんど、物が持っちゅう力を本質としてとらえた場合、その酒がどんな場所や環境で誕生し、どのような歴史の中で変化し進化してきて、現在どのような場所や環境で飲まれよって、どのような力を持っちゅうからあを、具体的に考えることになるがよ。


ほいたら、ワインやビールらあの他の酒と、日本酒はまったく違うた存在として立ち現れてくるがやき。


さらに具体的に考えりゃあ、日本酒の中でも、「低価格」をニーズとした普通酒のパック酒らあの「大衆酒」と、「品質」をニーズとした純米酒や純米吟醸酒らあの「中級酒」と、「顕示・意味」などをニーズとした「高級ブランド酒」とじゃあ、その持てる力はまったく違うた存在となるがよ。


さらにさらにスピノザ的に個別具体的に考えるやったら、「土佐酒」は他県の酒たぁその持てる力が違うことになるし、その「土佐酒」の中でも「司牡丹」の持てる力は違うし、もっと言やあ「司牡丹」の中でも1品1品の商品によって、その持てる力は違うっちゅうことになるがやき。


たとえば、司牡丹の「船中八策」(超辛口・純米酒)が本質として持っちゅう力は、食事と合わせて楽しむ時、特に和食、特に鮮度のえい刺身らあと合わせて楽しんだ際に、その本領を発揮する食中酒であると言えるがよ。


鮮度のえい食材の美味しさを、出汁のように下から支えて押し上げ、より美味しさを引き立て、もう一口に進まいて、もう一杯がさらに進むっちゅう力を、本質として持っちゅうがやき。


一方、極めてフルーティで極めて甘いタイプの「司牡丹 CEL-24」(純米吟醸酒)の場合は、「もう一杯!」にゃあ進みにくいろうけんど、一口飲んで「うまい!」っちゅうて声が漏れてしまうばあ、インパクト大の美味しさながよ。


日本酒が苦手で一杯しか飲めんような若い方々や、あるいは一杯だけの乾杯酒や、または「デザート酒」としての力を、その本質として持っちゅうがやと言えるがやき。


また、このような本質のとらえ方は、前回の「Part.1」で見た活動能力の概念に結びついちゅうがよ。


どのような性質の力を持った人が、どのような場所、どのような環境に生きちゅうがか。


ほんで、そのような人にとって、活動能力を高める組み合わせとなる日本酒たぁ、どのような日本酒ながか。


つまり、自分にとって最も活動能力を高める組み合わせとなる日本酒が、その人にとって最高の日本酒じゃっちゅうことながやき。


さらに、人の中にある力っちゅうもんはかなり大きな振り幅をもって変化しゆうきに、刺激に対する反応の仕方も時と場合に応じて大きゅう変化するがよ。


つまり、同じ人であったち、時と場合によっちゃあ、最も活動能力を高めてくれる日本酒は、異なる日本酒になる場合もあるっちゅうことながやき。


たとえば、普段は食事の美味しさを引き立てる辛口の食中酒が、自分にとって最も活動能力を高めてくれる日本酒やと感じちゅう人やったち、極度に疲れがたまって元気がないなっちゅう時らあにゃあ、超甘口の日本酒の一口が、癒しとなり、元気を与えてくれる存在になるっちゅうようなことも、起こりうるっちゅうことながよ。


ほんで、スピノザが「人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの」と言いゆうがは、受け取れる刺激の幅を広げてくれるもんのことやきに、まさに「酒道」も、これに当たると言えるがやき。


自分の活動能力を高めてくれる美味しい酒との出会い、さらにそんな酒と食との組み合わせの体験は、これまで受け取ったことのなかった様々な香味の刺激を受け取れるようになるっちゅうことであり、そりゃあ一層飲食を楽しめるようになって世界が違うて見えてくるっちゅうことであり、さらにそりゃあ必ずや人生を豊かにしてくれるっちゅうことながよ。


そのような、いろいろな物事の楽しみを知る人こそ、スピノザは賢者じゃと語っちゅうけんど、「酒道」の観点から見たちまさしゅう賢者であり、そのような人こそ免許皆伝の酒道家であるといえるがやき。


また著者は、優れた教育者や指導者とは、生徒や選手自身に自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育や指導ができる人であり、古典芸能らあで言う「型」たぁ、それを経ることで自分の力の性質を知ることができる、そのようなもんながやないかと語っちゅうけんど、このあたりも、まさにワシがこれまで皆さんにお伝えしてきた「酒道」に通じる部分であるといえるがよ。


ほんで、社会の中における日本酒を、スピノザ的な本質の概念で考えるとどうなるかを考えてみたいがやき。


コナトゥスがうまいこと働いて活動能力が増大するがは組み合わせがうまいこといく時であり、社会でありゃあ、そりゃあ人と人とがうまいこと関係を築いちゅう時ながよ。


そんな人間関係における潤滑油となるがが、まさに「酒」っちゅう存在が本質として持っちゅう力ながやき。


さらに、日本酒は「差しつ差されつ」っちゅう言葉が表しちゅうとおり、隣に座って酌み交わすことにより、より親密な関係性を築くために最もふさわしい酒であるといえるがよ。


さらにさらに、「酒道 黒金流」が推奨する「おきゃく(土佐流宴席)」文化の特徴のひとつに、「なかま」文化があるがやき。


土佐弁で「なかま」にゃあ、一般的な同士の意味に加え、共有・シェアの意味もあるがよ。


つまり、返杯・献杯・お座敷遊び等で杯を「なかま」(シェア)にし、宴会で移動しまくって席も「なかま」(シェア)にし、自由な取り分けで皿鉢料理も「なかま」(シェア)にし、老若男女の区別のう子供や見知らぬ他人までも、飲める者も飲めない者も楽しめるよう、誰もが「なかま」(同士)となって一体となる、そんな素晴らしい宴席文化の世界がそこにゃああるがやき。


まさにスピノザの言う、一人ひとりのコナトゥスを大切にしながら、人々が共同で安定して暮らしていくための大いなるヒントが、この土佐の「おきゃく」文化、「なかま」文化にあると言えるがやないろうか。


さてさて、ここまでかなりの長文やったけんど、本編じゃあまっと詳しゅうに紹介さいていただいちゅうきにまっと詳しゅう知りたい方は、下記をクリックし、無料のYouTube動画やPDF原稿を、是非ご覧いただきたいがぜよ。


https://shudo-kurogane.jp/shudo/gate02/gate02_31.html














土佐の高知の日本酒蔵元「司牡丹」の公式ホームページは、こちらをクリック!
司牡丹酒造株式会社

Posted by tsukasabotan at 10:00│Comments(0)