「えい行いはえい報いがくるっちゅうよりか、えい行いをするところに報いられちゅうがぜよ。」(佐々木蓮麿)
浄土真宗の僧で、臼杵仏教会会長、大分県仏教会会長、善法寺住職でもあった、佐々木蓮麿(1896〜1978)さんの言の葉ながやき。
ワシらあがちんまい子供の頃、周りの大人らあから「えいことをしたらえい報いがあるぜよ」みたいなことを、よう教えられたもんながよ。
けんど大人になるにつれて、えいことをしたち必ずしもえい報いがあるたぁかぎらんっちゅうことの方が現実やっちゅうことに、いつしか気づいてしまうもんながやき。
けんど、そこで止まってしもうちゃあいかんがよ。
確かに、えい行いをしたちえい報いがくるたぁかぎらんっちゅうんが世の中の現実やったとしたち、真実はまた違うがやき。
えい報いを期待してえい行いをするっちゅうんは、もうその時点で間違うちゅうっちゅうんが、実は真実ながよ。
えい報いを期待してえい行いをする……そういう人を想像して、おまさんはどう思うぜよ?
なんか卑しい、さもしい……そんなイメージやないかよ?
ほんじゃき、えい報いを期待してえい行いをするっちゅう時点で、間違うちゅうっちゅうんが、真実やっちゅうことながやき。
さらに真実は、おまさんがえい行いをするっちゅうそのこと自体が、おまさん自身が原因となっておまさんの活動能力を高めることにつながり、そりゃあおまさんの人生が自由自在といえるような境地に、一歩一歩近づいていきゆうっちゅうことを意味するがよ。
つまり真実は、おまさんがえい行いをするっちゅうその行為の中において、既におまさんは充分に報いられちゅうっちゅうことながぜよ。