
前々回から何回かにわたって、17世紀オランダの哲学者、スピノザの哲学を取り上げさいていただくことにさいてもうちゅうがよ。
難解なことで有名なスピノザやけんど、ベースとさいていただいたがは、気鋭の哲学者である國分功一郎氏の「はじめてのスピノザ〜自由へのエチカ〜」(國分功一郎 著 講談社現代新書 2020年11月20日発行 860円+税)っちゅう読みやすい新書本ながやき。
ちなみに本書の内容は、NHK「100分 de 名著」にて取り上げられた、「スピノザ エチカ〜『自由』に生きるとは何か〜」の内容に新たに1章を加え、全体を再構成したものやっちゅうがよ。
ほんじゃき、こぢゃんと分かりやうて、かつメチャクチャ面白い書籍やきに、是非ご一読を強うお薦めするがやき。

まずは、本書の内容から抜粋してご紹介さいていただき、そっから日本酒や酒道についても、言及さいていただきたいと思うがよ。
https://shudo-kurogane.jp/shudo/gate02/gate02_32.html
【「自由」とは何か】
スピノザの「エチカ」が目指す最終目標はこぢゃんとシンプルで、そりゃあ「人間の自由」やと著者は語るがやき。
「自由」っちゅう言葉をワシらあは普通、「束縛がない」っちゅう意味で使う、つまり制約がない状態っちゅう意味で使うけんど、ピノザはそのようにゃあ考えんっちゅうがよ。
制約がないだっけじゃあ自由たぁ言えんし、そもそも全く制約がないことらあありえんっちゅうんが、スピノザの出発点になるっちゅうがやき。

その人の活動能力が高まり、腕や足が自由に動かせるたぁどういう状態かっちゅうたら、腕にも足にも可動範囲があり、また骨格や筋肉や関節によって、動かせる方向やスピードにゃあ制約があるきに、これらあは腕や足にとっての条件ながよ。
腕や足を自由に動かせるっちゅうんは、それらあの条件を超え出ることやのうて、その条件のもと、その条件に従うて、腕や足をうもう動かせる時、ワシらあはそれらあを自由に動かすことができちゅうがやき。
つまり、自分に与えられちゅう条件のもとで、その条件にしたごうて、自分の力をうもう発揮できるっちゅうことが、スピノザの考える自由の状態じゃと、著者は語るがよ。
ほんで、ここでもまた、実験の考え方が大切になるっちゅうがやき。
その人の身体や精神の必然性(条件)は本人にもあらかじめ分かっちゅうわけやないき、誰やちそれをちびっとずつ、実験しもって学んでいく必要があるっちゅうがよ。
ほんじゃき、人は生まれながらにして自由じゃっちゅうわけやのうて、人は自由になる、あるいは自らを自由にするがやっちゅうがやき。
赤ちゃんは自分の体の使い方を知らんきに、たとえば、指しゃぶりはできる赤ちゃんやち、手に持った棒の先を口にうまいこと入れることができんかったりするがよ。
ほんじゃき、実験を重ねる中で、自らの身体の必然性を知り、ちびっとずつ人は自由になっていくがやっちゅうて著者は語るがやき。
またスピノザは、自由の反対は「強制」やっちゅうがよ。
ほいたら、強制たぁどういう状態かっちゅうたら、そりゃあその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押しつけられちゅう状態やっちゅうがやき。
その人に与えられた条件は、その人の本質と結びついちゅうきに、ほいたら強制たぁ本質が踏みにじられちゅう状態、あるいは外部の原因によってその本質が圧倒されてしもうちゅう状態と言うてもえいろうと、著者は語るがよ。
【自由の度合いを高める倫理学】
こう考えてくりゃあ、スピノザの自由の概念は、どっかで原因っちゅう概念と結びついちゅうことが分かると、著者は語るがやき。
不自由な状態、強制された状態たぁ、外部の原因に支配されちゅうことやったら、自由であるたぁ、自分が原因になることやないろうかっちゅうがよ。
ほいたら、自分が原因になるたぁどういうことかっちゅうたら、スピノザはこれを「能動」っちゅう言葉で説明しちゅうっちゅうがやき。

スピノザの定義によりゃあ、人は自らが原因になって何かをなす時、能動と言われるがよ。
ワシがワシの行為の原因である場合、ワシはその行為において能動であるわけながやき。
人は自由である時、また能動でもあることになるがよ。
けんどここに、重大な問題が残るっちゅうがやき。
すべては神っちゅう自然の内にあり、すべては神っちゅう実体の変状ながやったがよ。
神の変状であるっちゅう意味じゃあ、ワシらあの存在や行為は神を原因としちょって、ワシらあは原因やないがやき。
他方、ワシらあは外部から刺激を受け続けもって存在しちゅうがよ。
ほいたら、ワシらあは常に受動でしかありえんがやないかっちゅうがやき。
ワシらあが原因になることらあてできるがやろうかっちゅうて、著者は問いかけるがよ。
この点を理解するためにゃあ、原因/結果、能動/受動をスピノザがどのようにとらえちょったかを検討せにゃあならんと著者は語り、順を追って見ていこうっちゅうがやき。
ふつう原因と結果は、前者が後者をひき起こす関係にあるもんやと考えられちゅうがよ。
ところが「エチカ」の哲学体系においちゃあ、原因と結果の関係はそこに留まらんと、原因は、結果の中で自らの力を表現するもんとして理解されちゅうがやっちゅうがやき。
どういうことかっちゅうたら、個体たぁ神の変状やって、神っちゅう実体が一定の形と性質を帯びることで個体になるがやったがよ。
その意味じゃあ、存在しちゅうすべての物は、神をその存在の原因としちゅうがやき。
他方、どの個体も神の力を表現しちゅうと言われるがやったがよ。
自然界に存在する一つひとつの物は、神の力を説明しちゅうとも言い換えられるわけながやき。
ほいたら、原因と結果の関係は、同時に表現の関係でもあることになり、神っちゅう原因は、万物っちゅう結果において自らの力を表現しちゅうことになるがやと、著者は語るがよ。
原因と結果の関係が表現の関係でもあるがやったら、能動の意味も、ワシらあが普段使いゆうそれたぁ異なってくるっちゅうがやき。
ふつう能動と受動は、行為の方向、行為の矢印の向きで理解されちゅうがよ。
行為の矢印が、ワシから外に向こうちょったら能動で、矢印がワシに向こうちょったら受動っちゅうわけながやき。
けんどスピノザは、そのような単純な仕方でこれらあを定義せんかったっちゅうがよ。
スピノザは、ワシが行為の原因になっちゅう時──つまり、ワシの外やワシの内で、ワシを原因にする何ごとかが起こる時──ワシゃあ能動ながやと言うたと、著者は語るがやき。
ほんで、先の原因/結果の概念を用いりゃあ、この定義は次のように言い換えられることになるっちゅうがよ。
ワシは自らの行為において自分の力を表現しちゅう時に能動ながやき。それたぁ逆に、ワシの行為がワシやのうて、他人の力をより多く表現しちゅう時、ワシは受動ながよ。
さらに著者は、カツアゲの例を使うてこのことを分かりやすう説明しちゅうがやき。
銃を持った相手から「カネを出せ」っちゅうて脅されたワシが、自らポケットに手を入れてお金を取り出し、それを相手に手渡したとすりゃあ、その時、お金を手渡すワシは能動やろうか、受動やろうか、と。
もし殴られて動けんようにされて金を奪われたがやったら、ワシは受動やろうけんど、カツアゲの場合はそうやのうて、ワシは自分からお金を手渡しちゅうがよ。
そもそも、行為の方向で能動と受動を区別する考え方に則るやったら、ワシは能動にされてしまうことになるはずで、確かにお金を渡すっちゅう行為の矢印は、ワシから相手に向こうちゅうきにっちゅうて著者は語るがやき。
つまり、行為の方向で能動と受動を定義するがは決定的に不十分やっちゅうことで、それやとカツアゲ程度のことやち説明できんがやっちゅうがよ。
ところが、スピノザの能動/受動の概念やったら、違うっちゅうがやき。
スピノザは、その行為が誰のどのような力を表現しちゅうがかに注目するがよ。
銃で脅してくる相手にワシお金を手渡すっちゅう行為は、その相手の力をより多う表現しちゅうがやき。
ワシの力が全く表現されてないわけやのうて、ワシにゃあ手を使うてポケットからお金を取り出す力はあって、その力はその行為に表現されちゅうがよ。
けんど、圧倒的ながはその相手の力で、その意味じゃあ、ワシはこの行為の十分な原因になってないがやき。
ほんじゃき、ワシゃあ受動的ながやっちゅうて著者は語るがよ。
ほんで著者は、ここで一つ付け加えちょかないかんことがあるっちゅうて、次のように語るがやき。
カツアゲされたワシの行為は受動やけんど、実際にゃあ、たとえば彼をしてカツアゲをさせるに至った原因等々、その他にもいくつもの力がそこにゃあ表現されちゅうことやろうと。
こっから分かるがは、行為における表現は決して純粋じゃないっちゅうことやっちゅうがよ。
ほんじゃき、純粋にワシの力だっけが表現されるような行為をワシが作り出すこたぁできん、つまり、ワシは完全に能動になるこたぁできん、いっつもいくばくかは受動であるっちゅうがやき。
ただ、完全に能動にゃあなれんワシらあも、受動の部分を減らいて、能動の部分を増やすこたぁできるがよ。
スピノザはいっつも度合いで考えるがやと、著者は語るがやき。
自由も同じで、完全な自由はないっちゅうがよ。
けんど、これまでよりちびっとは自由になることはできる、自由の度合いをちびっとずつ高めていくこたぁできるっちゅうがやき。
こう考えりゃあ、スピノザの哲学がホンマに実践的やっちゅうことが分かるっちゅうがよ。
何か完全な自由を実現しょうとするがやのうて、一人ひとりがちびっとずつ自由になっていくことをこの哲学は求めゆうがやっちゅうがやき。
その意味じゃあ、スピノザの「エチカ」は、誰しもがいつでもすぐに始めることのできる倫理学ながやと著者は語るがよ。
【自由な意志など存在しない】
この項は、ちくと難解なき、短うにまとめるがが難しいきに、詳しゅう知りたい方は是非サイトの方をご覧くださいや。
要するにこの項でスピノザが言いゆうがは、確かにワシらあは意志を自分らあの中に感じ取るけんと、そりゃあ自由やあない、自発的やあないっちゅうことで、つまり意志もまた、何らかの原因によって決定されちゅうっちゅうことながやき。

精神の中にゃあ確かに意志のようなもんが存在しちゅうけんど、それやち何らかの原因によって決定を受けちゅうがやっちゅうがよ。
従って意志は自由な原因やのうて、そりゃあ、何ものからも影響も命令も受けん自発的な原因らあじゃあないっちゅうことながやき。
【行為は多元的に決定されている】
著者は、もし、意志の自由を否定すりゃあ人間がロボットのように思えてしまうっちゅうがやったら、そりゃあ人間の行為をただ意志だっけが決定しゆうと思うちゅうきやっちゅうがよ。
ほんで、「意志の自由」や「自由意志」を否定することへの強い抵抗の根拠はここにあるがやっちゅうがやき。
けんど、行為は実際にゃあ実に多くの要因によって規定されちゅうがやっちゅうがよ。
たとえば歩く動作のことを考えてみりゃあ、この動作は人体の全体に関わっちゅうがやき。
人体にゃあ200以上の骨、100以上の間接、約400の骨格筋があり、それが複雑な連携プレーを行うことで初めて歩くっちゅう動作が可能になるわけやけんど、人の意識はそのような複雑な人体の機構をすべて統制するこたぁできんがよ。
ほんじゃき、身体の各部分は意識からの指令を待たんと、各部で自動的に連絡を取り合うて複雑な連携をこなしゆうがやっちゅうがやき。

一つの行為は実に多くの要因のもとにあり、それらあが協同した結果として行為が実現するわけやっちゅうがよ。
つまり、行為は多元的に決定されゆうがであって、意志が一元的に決定しゆうわけやあないっちゅうがやき。
けんど、どういたちワシらあは自分の行為を、自分の意志によって一元的に決定されたもんと考えてしまうがよ。
そりゃあ、ワシらあの意識が結果だっけを受け取るようにできちゅうからやと、著者は語るがやき。
「意志の自由」「自由意志」を否定することに抵抗を覚える人は、それが意識をも否定することにつながると漠然と考えてしもうちゅうがやないろうかっちゅうて語るがよ。

けんど、意志と意識は全く別物ながやき。
ほんで、意志が自由な原因であることの否定は、意識の存在の否定たぁ何の関係もないっちゅうがよ。
意識の存在は否定されちゃあせんっちゅうがやき。
スピノザは意志が自由な原因であるっちゅう思い込みを批判したけんど、そりゃあおまさんの意識の否定じゃあないがよ。
おまさんはロボットやあない、意識は万能やあない、意志は自発的やあない、ただそれだけのことやっちゅうて、著者は語るがやき。
【現代社会にはびこる意志への信仰】
著者は、現代ばあ、「意志」「意志決定」「選択」っちゅうもんが盛んに言われる時代も珍しいっちゅうて語るがよ。
意志を巡る現代社会の論法は、次のようなもんやっちゅうがやき。
──こればあ選択肢があるがよ。はい、これがおまさんの選択やにゃあ。ちゅうこたぁつまり、おまさんが自分の意志で決めたががこれながやき。自身の意志で選択されたっちゅうことやき、その責任はおまさんにあるがぜよ。
──この論法が全く疑われんわけやきに、純粋な自発性としての意志らあ存在しえんっちゅう、ちょっと考えりゃあ分かることですら共有されんがやっちゅうがよ。
ほんで、このように意志なるもんを信じて疑わん現代社会を見よったら、何か信仰のようなもん、「意志教」のようなもんを信仰しゆうように感じるがやと、著者は語るがやき。
意志の概念の歴史を考えてみたち、普遍的に存在してきちゃあせんがやっちゅうがよ。
古代ギリシアにゃあ、意志の概念も、意志に相当する言葉もないそうながやき。
ほんで著者は、この意志っちゅう概念に現代社会が取り憑かれている気がしてならんっちゅうがよ。
何もかもが意志によって説明されてしまうっちゅうがやき。
ワシらあは意志を信仰しもって、意志に取り憑かれ、意志に悩まされゆうがやないかっちゅうて語るがよ。
いくつかの例として著者は、アルコール依存症や薬物依存症をあげちゅうがやき。
これらあは病気であり、ほんじゃき、そうした依存症に悩む人らあを「意志が弱い。なんで自分でやめれんがな。」っちゅうて責めたち、彼らあを追い詰めるだっけで、百害あって一利なしやっちゅうがよ。
多くの場合、依存症に悩む人らあは、幼い頃に虐待を受けるらあの、心に苦しみを抱えちゅうことが知られちゅうそうながやき。
何度も何度も回帰してくる苦しい記憶から逃れるために、アルコールや薬物が利用されてしまうケースがあるがやっちゅうがよ。
そりゃあ「意志の力」じゃあどうにもできんことながやき。
そもそも「自分の意志」で始めたことじゃあないがやと、著者は語るがよ。
不登校の子どもらあも、「学校に行かんことが自分の意志」たぁ言い切れんがやっちゅうがやき。
行きとうないっちゅう「意志」があったがか、どういたち「行けん状況」やったがか、はっきりと線引きができんっちゅうがよ。
そりゃあ、ワシらあの行為が意志によって一元的に決定されちゅうわけやないがやき、当然やろうっちゅうて著者は語るがやき。
ほんでまた、意識は結果だけを受け取るようにできちょって、行為の原因を知ることが難しいわけやきに、本人に明確な原因が分からんがも少しも不思議やないがやっちゅうがよ。
ほんで著者は、自分にゃあこれらあの問題について何か解決策を示すこたぁできんけんどと語り、そもそも一つひとつのケースを具体的に検証せん限り何も言えんっちゅうがが、スピノザ「エチカ」のエソロジー的な教えでもあるがやっちゅうがやき。
ただ、現代社会じゃあ、意志がほとんど信仰のように強う信じられちゅうこたぁ分かっちょいていただきたいと思うっちゅうて著者は語り、その信仰を解除すりゃあ、ワシらあはもうちびっとだっけ自由になれるがやないろうかっちゅうて語るがよ。
【スピノザの自由の概念から日本酒を考える】
自分に与えられちゅう必然的な法則や条件のもとで、それらあに従うて、自分の力をうまいこと発揮できることが自由の状態であり、ほんで、その人の身体や精神の必然性は本人にもあらかじめ分かっちゅうわけやないきに、誰もがそれを実験しもって学んでいき、人はちびっとずつ自由になっていく……このスピノザの自由の概念は、酒についてやち多くの示唆を与えてくれるがやき。
たとえば日本人にゃあ少なからず存在しちゅう、アルコール分解酵素のない方の場合らあは、その方に与えられちゅう必然的な法則や条件が「アルコールが分解できん」っちゅうことながやき、こういう方にとっちゃあ、そもそも「酒」っちゅう存在そのもんが、自分の力をうもう発揮できんことになるわけながよ。
ほんで、アルコール分解酵素がある方やったち、若いうちの最初っから、酒の美味しさや楽しさに気づいちゅうわけじゃあないがやき。
大半の方が、最初のアルコール体験は、特に最初の日本酒体験は、あんまり美味しさや楽しさたぁ結びついちゃあせん場合が多いがやないろうか。
そもそも人間の味覚は、赤ちゃんの頃は「甘い」(あるいは「うま味」)っちゅう味覚以外は受け付けんと、「辛い」「酸っぱい」「苦い」「渋い」らあの味がするもんは吐き出してしまうらしゅうて、「アルコール」の場合も同様ながよ。
つまり、酒の美味しさや楽しさ、日本酒の美味しさや楽しさを知るにゃあ、ちびっとずつ実験しもって学んでいくしかないっちゅうことながやき。
ほんで、ちびっとずつ実験しもって、日本酒の美味しさや楽しさを学んでいきゃあ、次第にいろいろなことが自由自在になってくるがよ。
たとえば、唎酒についてやち、数多くの体験を積んでいかん限り、つまりちびっとずつ実験しもって学んでいかにゃあ、唎酒能力がアップしていくこぁないし、そこに面白さや楽しさを感じることもないがやき。
けんど、そんな体験を積んでいく中において、香りを匂った瞬間に「バナナ様の香りが強いき、酢酸イソアミル系の酵母を使うちゅうにゃあ。ちゅうこたぁ、あんまり冷やし過ぎんほうがえいろう。」っちゅうようなことが浮かんでくるようになるがよ。
こうして、自由自在な唎酒能力が身についていくことになるがやき。
日本酒と料理のペアリングらあやち同様ながよ。
数多くの体験を積み、実験しもって学んでいきゃあ、どんなタイプの日本酒とどんな料理を合わせて楽しみゃあ、より美味しゅうなるがかっちゅうことが次第に分かってくるがやき。
ほいたら、ある日本酒を飲んだ瞬間に「この料理と合わせたい!」っちゅうて思えたり、ある料理を食べた瞬間に「この日本酒を合わせたい!」っちゅうて浮かんできたりして、自由自在に楽しめるようになっていくがよ。
ほんで最後に、やっぱし酒業界としちゃあ、現代社会に蔓延しちゅう「意志教」の信仰解除が、アルコール依存症患者の方々らあに対する偏見を減らすことや、彼らあの苦しみをほんのちびっとやち和らげることにつながるがやないかっちゅうて考えるがやき。
「自由は土佐の山間より」っちゅう、自由民権運動家・植木枝盛の言葉は、日本における「自由」は土佐が発祥の地やっちゅう宣言文でもあり、高知県の県詞にもなっちゅうがよ。
そんな土佐の高知に、飲める人も、飲めん人も、健康な人も、病気の人も……全ての人々がちびっとずつやち真の意味で自由になっていくことができる……そんな社会をいつか実現させたいと、ワシゃあ本気で考えちゅうがやき。
さてさて、ここまでかなりの長文やったけんど、本編じゃあまっと詳しゅうに紹介さいていただいちゅうきにまっと詳しゅう知りたい方は、下記をクリックし、無料のYouTube動画やPDF原稿を、是非ご覧いただきたいがぜよ。
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