今回は、ワシが創始して立ち上げさいてもうた、日本酒を媒介とした「もうひとつの道」、「酒道 黒金流」ホームページ(https://shudo-kurogane.jp )の「門前編 其の弐」に、新しいコンテンツとして「スピノザ哲学から考える新時代、そして日本酒と酒道!<Part.4>を、11月25日にアップさいていただきましたきに、動画も文章も無料で観ることができますき、是非たくさんの皆さんにご覧いただきたいがやき。
これまで3回にわたって17世紀オランダの哲学者、スピノザの哲学を取り上げさいていただいてきたけんど、今回はその締め括りの回ながよ。
難解なことで有名なスピノザやけんど、ベースとさいていただいたがは、気鋭の哲学者である國分功一郎氏の「はじめてのスピノザ〜自由へのエチカ〜」(國分功一郎 著 講談社現代新書 2020年11月20日発行 860円+税)っちゅう読みやすい新書本ながやき。
ちなみに本書の内容は、NHK「100分 de 名著」にて取り上げられた、「スピノザ エチカ〜『自由』に生きるとは何か〜」の内容に新たに1章を加え、全体を再構成したものやっちゅうがよ。
ほんじゃき、こぢゃんと分かりやうて、かつメチャクチャ面白い書籍やきに、是非ご一読を強うお薦めするがやき。
まずは、本書の内容から抜粋してご紹介さいていただき、そっから日本酒や酒道についても、言及さいていただきたいと思うがよ。
https://shudo-kurogane.jp/shudo/gate02/gate02_33.html
【スピノザ哲学は「もうひとつの近代」を示す】
これまで「善悪」(Part.1)、「本質」(Part.2)、「自由」(Part.3)というテーマで、スピノザ哲学を紹介してきたけんど、今回は「真理」をテーマとして、スピノザの思考のOSがワシらあの思考のOSといかに異なっちゅうかかについて、考えてみたいと思うっちゅうて著者は語るがやき。
スピノザの生きた17世紀っちゅうんは、現代のワシらあにまで続く様々な学問や制度がヨーロッパに概ね出揃った時代やっちゅうがよ。
制度として何より重要ながは近代国家やけんど、ワシらあがいま国家やと思うちゅう、領域があって主権がある国家っちゅう形態は、17世紀半ばになって出てきたもんやっちゅうがやき。
ほんで、いわゆる近代科学もこの時期に出てくるっちゅうがよ。
17世紀はホンマに現代っちゅうもんを決定づけた重要な時代ながやと、著者は語るがやき。
16世紀から続く宗教戦争は、ヨーロッパを荒廃させたっちゅうがよ。
庶民が突然残虐な人殺しに走るような、それまでの人間観が根底から覆されることが起こり、物質的にも精神的にもヨーロッパが焼け野原になってしもうたっちゅうがやき。
その廃墟の中からもう一度、すべてを作り直さなにゃあいかんっちゅうんが17世紀の思想的課題やったと思うと著者は語り、その意味でこの世紀を、「思想的なインフラを整備した時代」と呼びゆうっちゅうて語るがよ。
17世紀はある意味で転換点であり、あるひとつの思想的方向性が選択された時代やったと考えることができるっちゅうがやき。
歴史に「もしも」はありえんけんど、もしかしたら別の方向が選択されちょった可能性もあったがやないかと考えるこたぁできるっちゅうがよ。
著者の考えじゃあ、スピノザの哲学はこの可能性を示す哲学ながやっちゅうがやき。
そりゃあ「ありえたかもしれん、もうひとつの近代」に他ならんっちゅうがよ。
ほんで、この「もうひとつの近代」に関わってくると思われるがが、スピノザの「真理」についての考え方ながやっちゅうて、著者は語るがやき。
【真理は真理自身の基準である】
スピノザは真理について、次のようなこぢゃんと有名な言葉を残しちゅうっちゅうがよ。
「実に、光が光自身と闇とを顕すように、真理は真理自身と虚偽との規範である。」……ここに言われる「規範」たぁ基準のことで、つまり後半部分だけを取り出しゃあ、真理は真理自身の基準であり、ほんでまたそりゃあ虚偽の基準でもあるっちゅうことになるがやっちゅうがやき。
真理の基準たぁ何かっちゅうたら、そりゃあおそらく、その基準に当てはめりゃあどんなもんやちそれが真ながか偽ながかが分かる、そういう定規のようなもんやろうっちゅうて、著者は語るがよ。
さて、誰かがそのような基準を発見したっちゅうて見せてくれたとして、それを見せられたワシは、当然次のような疑問を抱くろうっちゅうがやき。
「この基準自体が真であるとどういて言えるがな?」と。
相手はどうするやろうか。
「ほいたら、この真理の基準が真やと言えるようなもうひとつ別の真理の基準を探してくらあよ」となるがよ。
これ以上は説明する必要はないろうと、著者はいうがやき。
もし彼がもうひとつ別の真理の基準を見つけ出してきたとしたち、それに対してワシゃあまた同じ疑問を抱かざるをえんがよ。
つまり、真理の基準を作ろうとすりゃあ、真理の基準の基準の基準の……ちゅうて果てしのう続く探索に陥ることになるっちゅうがやき。
こりゃあ何を意味しちゅうかっちゅうたら、真理の基準は存在しえん、もうちくと正確にいやあ、真理の外側にあって、それを使やあ真理を判定できる、そのような真理の基準を見出だすこたぁ原理的に不可能やっちゅうことやと著者は語るがよ。
それに照らし合わせりゃあ真理かどうかが分かる基準を人間は基本的に持ちえんっちゅうことであり、こりゃあ意外とショッキングなことやっちゅうがやき。
こりゃあある意味で人間の知性に課された苦しい条件とも言えるかもしれんっちゅうて語るがよ。
ほいたら、どう考えりゃあえいがやろうか。
この実に単純な、けんど実に深刻な逆説に対する答えが先の定理ながやっちゅうがやき。
つまり、真理の基準を真理の外に設けることはできん。真理そのものが真理の基準とならにゃあいかん。ほんで何が真かを教えるもんは、何が偽であるかも教えてくれるやろうっちゅうがよ。
それが「真理は真理自身と虚偽との規範である」の意味するところやと、著者は語るがやき。
ほいたら真理が真理自身の基準であるたぁ、どういうことやろうか。
そりゃあ真理が「自分は真理じゃ」っちゅうて語りかけてくるっちゅうことやっちゅうがよ。
言い換えりゃあ、真理を獲得すりゃあ、「ああ、こりゃあ真理や」と分かるがであって、それ以外に真理の真理性を証し立てるもんはないっちゅうことやっちゅうがやき。
ここだけ聞きゃあ納得できんかもしれんけんど、真理の真理性を証し立てるもんを真理の外側に見出だすがは不可能やっちゅうことやったがよ。
ほいたら、「光が光自身と闇とを顕すように」っちゅう前半の部分の意味も見えてくるがやっちゅうがやき。
どんなもんも光を当てんと見えんがよ。
けんど、ただひっとつだっけ光を当ていじゃち見えるもんがある。それが光ながやき。
光はそれを照らす光を必要とせん。光は光だっけで自らを顕すことができる。真理もまたそれと同じっちゅうわけやと、著者は語るがよ。
けんど、まだ納得できん方も多いはずやと著者は語るがやき。
なんでかっちゅうたら、この真理観じゃあ近代科学が成立しえんからやっちゅうがよ。
科学は新しゅう提示する実験結果や定理を公的に証明し、共有するっちゅうプロセスと切り離せんがやき。
「その定理を見てみりゃあ真理やと分かる」っちゅうがじゃあ、科学にはならんわけやっちゅうがよ。
その意味で、スピノザの真理観は近代科学のあり方に抵触するがやっちゅうて著者は語るがやき。
【物を知り、自分を知り、自分が変わる】
ほんで著者は、スピノザの真理観を伝えるもう一つの定理を見てみろうっちゅうて語り、次の定理を紹介するがよ。
「真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができん。」……こりゃあ、真の観念を有する者だけが真の観念の何たるかを知っちゅうっちゅうことでもあり、言い換えりゃあ、真の観念を獲得してない人にゃあ、真の観念がどのようなもんながかが分からんっちゅうことでもあると、著者は語るがやき。
ほんで、こんな風に考えてみろう、と。
もしもおまさんがスピノザ本人に会いに行ったとして、「スピノザ先生、おまさんの考える確実性たぁ何ぜよ?」っちゅうて訊いたとするがよ。
おまさんの懇願に負けてスピノザは一生懸命に説明してくれるかもしれんけんど、どればあ本人から説明を受けたとしたち、そのように説明を受けただっけじゃあ、スピノザの考える確実性を理解することはできんっちゅうことながやき。
なんでかっちゅうたら、確実なもんを認識してみんかったら、確実性たぁ何かは理解できんからやっちゅうがよ。
ほんで、スピノザは最初に挙げた「真理は真理自身と虚偽との規範である」っちゅう文言の直前でこう述べちゅうっちゅうがやき。
「あえて問うけんど、前もって物を認識しちゃあせんがやったら自分がその物を認識しちゅうことを誰が知りえるがか。すなわち前もって物について確実でないやったら自分がその物について確実であることを誰が知りえるがか。」……どういうことかっちゅうたら、著者はこの文言を次のように解説しちゅうがよ。
「いま、自分はこの物について確実な認識を有しちゅう。確実な認識たぁこのような認識のことや」、そのように感じることができるがは、何かを確実に認識した後のことやとスピノザは言いゆうっちゅうがやき。
何かを確実に認識した時、人はその何かについての認識を得るだけやのうて、確実さたぁ何かをも知ることができるっちゅうことながよ。
そりゃあ、自分が確実さをどのように感じるがかを知るっちゅうことでもあるがやっちゅうがやき。
何ごとかを認識するこたぁ、その何ごとかだけやのうて、自らの認識する力を認識することでもあるがやっちゅうがよ。
何かを知ることで、ワシらあは自分らあのことをよりよう知るとゆうたちえいやろうと、著者は語るがやき。
ほんで著者は、自分を知るこたぁ自分に何らかの変化をもたらすがやっちゅうがよ。
つまり、何かを認識することと、真理を獲得するこたぁ、認識する主体そのものに変化をもたらすがやっちゅうがやき。
ワシらあは物を認識することによって、単にその物についての知識を得るだけやのうて、自分の力をも認識し、それによって変化していくがやっちゅうがよ。
真理は単なる認識の対象やのうて、スピノザにおいて、真理の獲得は一つの体験として捉えられちゅうわけやと著者は語るがやき。
たとえば前回「Part.3」にて、自由意志の問題点を詳しゅう検討したけんど、もしおまさんがこれまでこの概念を漠然とであれ信じちょったとすりゃあ、この概念の問題点を理解するためにゃあ、自分の考えのどこがおかしかったがか、どこをよう検討せんと信じちょったがかに気づかにゃあならんがやっちゅうがよ。
ほんでそれに気づくこたぁ、ほんのちびっとやけんど、これまでの考え方に変化をもたらすわけやきに、おまさんの主体が変化することを意味するがやっちゅうがやき。
そん時、おまさんは単に自由意志の問題点を理解しただけやのうて、自分なりの理解する仕方を知り、「なるほど」っちゅう納得感の感覚をも得ることになるがやっちゅうがよ。
このように認識はスピノザにおいて、何らかの主体の変化と結びつけて考えられちゅうがやっちゅうがやき。
自らの認識する能力についての認識が高まっていくわけやきに、こりゃあつまり、ちびっとずつ、より自由になっいきゆうがやと考えることができるっちゅうて著者は語るがよ。
【主体の変容と真理の獲得】
スピノザの哲学が、何かを理解する体験のプロセスをこぢゃんと大事にしちゅうことが分かるやろうと、著者は語るがやき。
何かを認識し、それによって自分の認識する力を認識していく。
このように認識にゃあ二重の性格があるがやっちゅうがよ。
スピノザはそこに力点を置いたがやっちゅうがやき。
このような真理観はある意味で密教的とも言えるかもしれんと、著者は語るがよ。
真理とそれに向かう自分との関係だけが問題にされちゅうきながやき。
ほんで著者は、これまでの内容を十分に理解した人は、理解したが故にある疑問を抱くかもしれんっちゅうがよ。
人は自らの力を十分に表現するように行為しゆう時に能動的と言われるがやったがやき。
けんど、そのような表現をどうやって公的に証明したらえいかっちゅうたら、おそらくできんっちゅうがよ。
自分とうまいこと組み合うもんと出会うた時、人はその活動能力を増大させるがやったがやき。
それが善いことやったがよ。
けんど活動能力の増大をどうやって証明できるがやろうか。
こちらはもしかしたら生理学的に証明できる値もあるかもしれんけんど、基本的にゃあ難しいろうと言わざるをえんっちゅうがやき。
ワシらあはこれまで、どうして力としての本質っちゅう考え方が必要ながか、どうして活動能力っちゅう考え方が必要ながか、どうして力の表現としての能動の定義が必要ながかを見てきたがよ。
けんど、近代科学的な視点で眺めりゃあ、それらあは、もしかしたら根拠がないと言われてしまうかもしれんっちゅうて著者は語るがやき。
エヴィデンスを出すことも、公的に証明することもできん事柄やきながよ。
ワシらあの考え方は強う近代科学に規定されちょって、ワシらあの思考のOSは近代科学的やきに、そのOSはスピノザ哲学をうまいこと走らせることはできんかもしれんっちゅうがやき。
これこそが、著者が「Part.1」にて述べた、「頭の中でスピノザ哲学を作動させるためにゃあ、思考のOS自体を入れ替えにゃあならん」っちゅうことの意味に他ならなんがやっちゅうがよ。
近代科学はデカルト的な方向で発展してきたがやき。
その発展は貴重で、ワシらあは日々、その恩恵に与って生きちゅうがよ。
ほんでまた、公的に証明したり、エヴィデンスを提示することもこぢゃんと大切ながやき。
それを否定するがは馬鹿げちゅうがよ。
けんどそのことを踏まえた上で、同時に、スピノザ哲学が善悪、本質、自由、そして能動をあのように定義した理由を考えていただきたいっちゅうて、著者は語るがやき。
近代科学はこぢゃんと大切ながよ。
ただ、それが扱える範囲はまっこと限られちゅうがやき。
近代科学じゃあ、たとえばスピノザの考える表現の概念は扱うことができんがよ。
けんど、「Part.3」で見たように、この表現の概念がなけりゃあ、カツアゲ程度の行為やち、ワシらあは十分に説明できんなってしまうがやっちゅうて、著者は語るがやき。
【AIアルゴリズムと人間の知性】
ほんで著者は、現代社会の話として、AIが人間に近づくことやのうて、人間がAIに近づくことに危惧を抱いちゅうっちゅうがよ。
現代社会はマニュアル化が進み、人間そのものが一つのアルゴリズムのように扱われゆうがやき。
一定の情報をインプットすりゃあ、演算結果をアウトプットしてくれる存在っちゅうわけながよ。
アルゴリズムのように扱われるっちゅうこたぁ、なんぼやち取り替えがきく存在として扱われることを意味し、実際にそうなりつつあるがやっちゅうがやき。
そこじゃあ労働を経もって、労働者の主体がちびっとずつ変容するっちゅうプロセスは無視されてしまうがよ。
「熟練」っちゅう言葉は死語になりつつあるっちゅうがやき。
またマニュアル化は徹底されちょって、現在の接客業じゃあ情動レベルにまでそれが浸透しちゅうっちゅうがよ。
たとえばどんな場合にどんな風に笑いなさいっちゅうことまで決められちゅうそうながやき。
社会が人間に「アルゴリズムになりなさい」っちゅうて命じゆうような状態やっちゅうて著者は語るがよ。
スピノザ哲学を使うて、そのような状態を変革する解決策がすぐに提示できるわけじゃあないっちゅうて著者は語り、「けんど」として、次のように語るがやき。
これまでに勉強してきたスピノザのさまざまな概念、すなわち、組み合わせとしての善悪、力としての本質、必然性としての自由、力の表現としての能動、主体の変容をもたらす真理の獲得、認識する力の認識……これらあの概念を知るだけやち、この社会の問題点を理解するヒントにゃあなるはずやっちゅうて語るがよ。
現代社会は、近代の選択した方向性の矛盾が飽和点に達しつつある社会やと思うと語り、そんな社会を生きるワシらあにとって、選択されんかったもうひとつの近代の思想であるスピノザの哲学は多くのことを教えてくれるっちゅうがやき。
近代のこれまでの達成を全否定する必要はないけんど、反省は必要やと著者は語り、スピノザはその手助けをしてくれるがやっちゅうて結ぶがよ。
【スピノザの真理観から酒道を考える】
さて、スピノザの真理観を学んでワシゃあ、これこそまさに「道」の真理観やっちゅうて感じたがやき。
確かに著者の言うとおりスピノザの真理観じゃあ、近代科学は成立しえんがよ。
けんど、ほいたらそりゃあ近代のどこっちゃあに存在しえんがかっちゅうたらそうやのうて、日本文化の「道」の思想の中に存在しちゅうがやないかっちゅうて感じたがやき。
「道」の思想も、たとえばある人が「この道を究めた」としたち、それを公的に証明するこたぁ不可能ながよ。
著者も指摘しちゅうとおり、近代科学はこぢゃんと大切やけんど、そりゃあ万能やのうて、扱える範囲がこぢゃんと限られちょって、現代に存在しちゅうことの中にやち、近代科学じゃあ証明できんことが実はたくさんあるっちゅうことながやき。
ほんで、そのうちの一つが「酒道」ながやと思うちゅうがよ。
ワシの目指す「酒道」も、一つ真理を獲得すりゃあ、「ああ、こりゃあ真理や」と分かるがであって、それ以外に真理の真理性を証し立てるもんはないがやき。
さらに「酒道」においてやち、何かを認識することと、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらすがよ。
そうやって「道」を究めていく途上において、自身が変化しレベルアップしていき、ちびっとずつより自由になっていき、いつしか「道」そのものを体現できるようになりゃあ、自由自在の境地に達することができると確信しちゅうがやき。
さてさて、ここまでかなりの長文やったけんど、本編じゃあまっと詳しゅうに紹介さいていただいちゅうきにまっと詳しゅう知りたい方は、下記をクリックし、無料のYouTube動画やPDF原稿を、是非ご覧いただきたいがぜよ。
https://shudo-kurogane.jp/shudo/gate02/gate02_33.html
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